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2014年5月5日月曜日

Carmen Mastren

1913年10月6日生。1981年3月31日没。ニューヨーク州コホーズ出身。生名Carmen Mastandrea。

1934年、Wingy ManoneJoe Marsalaのバンドに参加し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。キャリアを通じて、Raymond ScottRay McKinleyMel Powellら多くのミュージシャンと共演した。
40年代にはとりわけSidney BechetMuggsy SpanierのBig Fourに参加し、大戦時にはGlenn MillerのAir Force Bandにも参加した。

Morton Downeyのディレクター、コンダクターとしても活動した彼は50年代から70年代にかけてはNBC制作のThe Today ShowThe Tonight ShowSay When!!などに出演した。

今日では36年から41年の間に務めた、Tommy Dorsey楽団のギタリストとしての活動が広く知られている。


from Wikipedia

2013年5月18日土曜日

Don Raye

1909年3月16日生。1985年1月29日没。ワシントンD.C出身。生名Donald MacRae Wilhoite, Jr.

ヴォードヴィリアン。作曲家。
ダンサーとして活動を始め、バージニア州のダンス選手権に入賞後ヴォードヴィルに出演するようになりステージでは自作の曲も披露した。1935年からは作曲家としてSammy CahnSaul ChaplinJimmie Luncefordらと共に活動する。

30年代には"Beat Me Daddy, Eight to the Bar"、"The House of Blue Lights"、"Just for a Thrill"、"Boogie Woogie Bugle Boy."などの歌曲を筆頭にAndrews Sistersとの活動で知られる。41年より第二次世界大戦に従軍、軍役を終えた後Gene de Paulの在籍したユニバーサル・ピクチャーズに務め、ディズニー制作の『イカボードとトード氏』などに楽曲を提供する。彼とGene de Paulは同じくディズニーの『ふしぎのくにのアリス』に"Beware the Jabberwock,"を提供しレコーディングも行われたが、作中に使用されることは無かった。
映画Thunder Road(1958)のテーマソングをRobert Mitchumと共作したがこちらも映画中使用されることはなく、後にCapitol Recordsよりレコードとしてのみリリースされている。

Will Bradley Orchestraのために作曲し、1940年にレコーディングされた"(That Place) Down the Road a Piece,"は後にロックンロールのスタンダードナンバーとなりThe Rolling StonesChuck Berryなど多くのミュージシャンによって演奏された。

また、ジャズ・スタンダードとして知られている"You Don't Know What Love Is,"ではGene de Paulが作曲、Rayeが作詞を担当した。



2013年5月14日火曜日

Dodo Marmarosa

1925年生。2002年没。ペンシルベニア州、ピッツバーグ出身。

幼い頃からクラシックのピアニストとしての才能を現す。一方で学友であったErroll Garnerとジャズの演奏を始めるようになる。"Dodo"というあだ名は子供の頃、体格の割に頭が大きかったことから付けられた。

1941年より、プロの演奏家として活動するようになる。15歳にしてJohnny "Scat" Davis の楽団に参加し、これをきっかけとしてその後Gene Krupaのバンドに参加する。
1940年代前半に賛助として参加したCharlie BarnetのビッグバンドでDizzy GillespieCharlie Parkerらと出会う。
1944年にTommy Dorseyの楽団に参加。Buddy Richと共演する。
同44年11月、Gramercy Fiveとして知られるArtie Shawのコンボバンドに参加。同バンドにはギタリストのBarney Kessel、トランペット奏者のRoy Eldridgeも在籍した。

1940年代後半にはLester Young、Charlie Parker、Howard McGheeGene Normanらの伴奏を務める。1947年、米エスクワイア誌のピアニスト部門で新人賞を獲得する。1946年にハリウッドで録音されたCharlie Parkerとの共演は現在でも高く評価されている。

1950年7月21日、Savoy Recordsに78回転盤でのシングルを録音する。ベースにThomas Mandrus、ドラムにJoe "Jazz" Wallaceを従えたトリオ編成で4曲を吹き込んだ。この録音は1980年に同レーベルによって再発されたThe Modern Jazz Piano Albumに聴くことができる。

1950年以降にはわずかに61年のArgo Recordsでの録音及び62年のGene Ammonsらとの共演(Prestige発売のJug & Dodoで視聴可)のみが残されている。
その後もピッツバーグにてパートタイムでの演奏を続けアマチュアとしてUptown Recordsから音源も発表するが精神疾患を患い、54年電気ショックによる治療を試みるも恢復には至らなかった。

1968年、ピッツバーグの「コロニー・レストラン」での演奏を最後に観客の前で演奏することはなかった。
晩年は彼が入院していた退役軍人管理局運営の総合医療センターにて、入院患者や来客のため時折ピアノやオルガンを演奏していた。




 

2012年10月13日土曜日

Bradly Kincaid

1895年生。1989年没。ケンタッキー州ギャラード郡出身。

出身はケンタッキー州だったがミュージシャンとしては北部州で活躍した。1926年、イリノイ州シカゴのラジオ局WLS-AMが放送したNational Barn Danceに出演した彼はその後ラジオのパフォーマーとしても知られるようになる。
フォーク/カントリー曲の作曲家としても才能に恵まれた彼が1928年に出版した楽曲集My Favorite Mountain Balladsは10万部を超えるベストセラーとなった。
Gennett Recordsに録音を残している。

1935年、マサチューセッツ州ボストンのWBZ-AMで働いていた彼は 当時22歳だったMarshall Jonesに"Grandpa" Jonesとニックネームを付けた。 これはJonesが早朝の放送のためスタジオ入りする時いつも不機嫌にしていたために付けられたあだ名だったが後にはあだ名で広く知られるようになった。

1945年にテネシー州ナッシュビルに越した彼はGrand Ole Opry(現在でも続いているカントリー音楽のライブ放送番組でアメリカで最も長い歴史を持つ番組のひとつでもある)のメンバーになる。
1971年、Nashville Songwriters Hall of Fameに加盟した。


2012年10月5日金曜日

Chauncey Morehouse

1902年生。1980年没。ニューヨーク州ナイアガラフォールズ出身。

ペンシルバニア州チェンバーズバーグで育つ。幼い頃からドラムを演奏する。ピアノ、バンジョーも演奏した。高校生の頃、Versatile Fiveというバンドを結成する。
1922年から1924年にかけてPaul Spechtのバンドに所属し、23年にはヨーロッパツアーも行った。同じくSpechtによる少人数編成のバンド、The Georgiansでも演奏した。

24年から27年にかけてはJean Goldkette、同じく27年にはAdrian Rollini、28年から29年にはDon Voorheesの楽団に所属した。その他にもFrankie Trumbauer, Bix Beiderbecke, Red Nichols, The Dorsey Brothers, Joe Venutiらとレコーディングを行っている。 

29年からはニューヨーク市を中心にスタジオミュージシャンとして活動を始めラジオやテレビ放送の為に多く演奏した。70年代までスタジオミュージシャンとして現役で活動し、晩年はジャズの演奏を再開し、カーネギーホールでのBix Beiderbeckeのトリビュートコンサートなどフェスティバルを中心に参加した。

Leedy Drum社によるN'Goma drumsは彼の考案したものとして知られる。



2012年8月22日水曜日

Coon-Sanders Original Nighthawk Orchestra

1919年結成。
 クーンは1893年、ミネソタ州ロチェスター出身。サンダースは1896年カンザスに生まれた。サンダースは地元で野球の名手として知られていたが音楽に専念するため20年代初頭にスポーツを退く。

二人の結成したバンドは22年からWDAFによって全米放送されるようになる。演奏はカンザスのミュエルバッハホテルから中継された。放送が午後11時半か午前1時という深夜時間帯のものだったため彼らはナイト・ホークス・オーケストラを名乗るようになる。1924年にはファンクラブに37000人も参加するようになる。ファンは手紙や電報などでリクエストを伝えた。当時の様子はオリジナル楽曲の"Nighthawk Blues"の歌詞にも("Tune right in on the radio/Grab a telegram and say 'Hello'.")残されている。1924年、ジュール・スタインの設置したMusic Corporation of America と契約しシカゴへ活動の拠点を映す。 また、ウィリアム・ペイリーの企画によってニューヨークでの放送向け演奏も行った。

その後も順調に活動を行ったが1932年クーンの病死によって失速、サンダースは自身のバンドを組むなど活動を続けたが1965年にこの世を去った。

現在でも年に一度、彼らのファンによって会合/フェスティバルがウェストバージニア州で開催されている。



2012年7月28日土曜日

Carl Kress

1907年生。1965年没。ネバダ州リーノ出身。

ギタリスト。プロとしてのキャリアを1926年Paul Whiteman楽団でスタートする。スタジオ・ミュージシャンとして多くのミュージシャンと共演し、20年代にはBix Beiderbecke, Red Nichols, Eddie Lang, Miff Mole, Frankie Trumbauer, Tommy Dorsey, Adrian Rolliniらと共演する。30年代には同じくギタリストのDick McDonough
とデュオで多く演奏し、40年代にはMuggsy Spanier, Pee Wee Russell, Bobby Hackett, Pearl Baileyらと共演する。一時期にはLouis Armstrongの在籍したGordon Jenkins楽団でも演奏した。最晩年にはGeorge Barnesとのデュオで演奏することが多かった。

40年代にはColumbia Recordsのレコーディング・プロデューサーも務め46年The King Cole Trioの"The Christmas Song"などをプロデュースしている。
また彼はニューヨーク52番通りにあったOnyx Clubの共同経営人でもある。当時The Chesterfield Supper Club
いうラジオ・プログラムにも出演していたThe SatisfiersのボーカリストHelen Carrollと結婚し同番組に自身のオーケストラでも出演している。

2012年7月22日日曜日

Cyril Stapleton

1914年生。1974年没。イギリス出身。

7歳の頃バイオリンの演奏を始め12歳の頃には地元のラジオ局で演奏するようになっていた。10代のころはBBCの放送ややサイレント映画の伴奏などを多く務めた。Trinity College of Musicに進学した彼はHenry Hall の率いたダンスバンドに参加するようになる。同バンドはいくつかの録音をEMIに残している。バンドを去った後彼は生地のノッティンガムに戻り自身のバンドを結成する。

30年代にはJack Payne Orchestraと南アフリカをツアーする。第二次世界大戦に従軍後、London Symphony Orchestra、the National Symphony Orchestra、the Philharmonia Orchestraなどに参加する。1947年には再びバンドを結成し、BBCで演奏するようになった。共演した歌手にDick JamesFrank Sinatraなど。
彼のバンド出身のミュージシャンにBert WeedonBill McGuffieTommy WhittleMatt Monroなどがいる。



2012年7月15日日曜日

Danny Overbea

1926年生。1994年没。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。

ギタリスト。シンガー。シカゴのR&Bシーンに現れ黎明期のロックンロールで活躍した。46年にプロとしてのキャリアをスタートした彼は50年に初めてのレコーディングに参加。52年にチェス・レコードと契約。‘Train Train Train’、‘40 Cups Of Coffee’などの楽曲を録音する。これらの楽曲は「ロックンロール」という呼称が一般化する以前のロックンロール録音として知られている。楽曲はそれぞれBuddy Morrow、Ella Mae Morseによって後にカバーされている。55年、ロックンロールがチャートに大きく登場する以前にBill Haley And His Cometもまた‘40 Cups Of Coffee’の録音を残した。

彼の音楽は当時の人気DJだったAlan Freedによって度々取り上げられる。派手なステージパフォーマンスやBilly Eckstine風のバラード歌唱など多才であった。59年の録音を最後に音楽業界からは76年に引退する。





2012年7月5日木曜日

Albert Sandler

1906年生。1948年没。ロンドン出身。

第二次世界大戦以降スポットがあたることが少ないが、戦間期の軽音楽界を先導する人物だった。

ロシア移民の両親の元に生まれる。幼少期より音楽に関心を抱いていたが、ロンドン東部の当時の経済状況から9歳の時兄に教わるようになるまで音楽教育を受けることはできなかった。後にバイオリンの教師を見つけ、12歳の時には映画館のオーケストラで演奏し給与を得るようになる。

Guildhall School of Musicの奨学金を獲得した彼は在学中レストランのオーケストラなどで演奏する。 Grand Hotelの音楽指揮者を担当するようになった彼は3年間同職を務め、ラジオ黎明期にはBBCでその演奏が中継されるようになる。20年代以降は知名度を上げレコードなどでも広く知られるようになる。

43年BBCからの依頼を受けPalm Court Orchestraを結成。45年には映画音楽界に参入した。



2012年7月4日水曜日

Dan W. Quinn

1859年生。1938年没。ニューヨークシティ出身。

レコード産業を通じて有名になった最初期の歌手。レコーディングキャリアは1892年から1918年。
 子供の頃、教会の聖歌隊で歌唱を磨いた彼はボードビルのステージに立つようになる。1892年ニューヨークで吹き込まれた最初の録音はすぐさま話題を集めるようになった。生涯に渡り34曲をチャートトップテンに送り込んだ。

当時は現在と異なり、特定のレコード会社に所属する慣習がなかったためBerliner, Columbia, Edison, Gramophone, Paramount, Victorなど多くのレコードカンパニーに録音を残しその数は2500タイトルに及ぶ。


Lost Sounds: Blacks And the Birth of the Recording Industry, 1890-1919 (Music in American Life (Mal))

2012年7月2日月曜日

David Rose

1910年生。1990年没。ロンドン出身。

代表曲に"The Stripper", "Holiday for Strings", and "Calypso Melody"等。
テレビ番組への作曲も多く行い代表作にIt's a Great Life, The Tony Martin Show, Little House on the Prairie, Highway To Heaven, Bonanza, Highway Patrol。"Ray Llewellyn."という変名の元行われた。4度のエミー賞を受賞。

イリノイ州シカゴに育つ。16歳の時Ted Fio Ritoのバンドに参加しプロとしての活動を始める。NBC Radioのピアニストも務めた。

30年代初頭、Frank Trumbauer楽団の編曲や米放送局WGNのハウスバンドのリーダーを務め評価を得る。

依頼を受けハリウッドへ移った彼は Mutual Broadcasting Systemの音楽監督となる。 第二次世界大戦中にタレントのRed Skeltonと出会い彼のプログラムに参加以後20年以上に渡って、テレビ・ショーをともに作り上げた。

58年に"The Stripper"を作曲。同曲は映画Slap Shot, The Full Monty and Wallace & Gromit: The Curse of the Were-Rabbit 及びテレビシリーズLittle Britain, Scrubs.等で使用された。





2012年6月28日木曜日

Charles P. Lowe

生没年、出身地不明。

名の知れたボードビルの演者であった彼は、「マーチ王」Sousaのバンドでソロイストを務めることもあった。Edison’s National Phonograph Companyに1896年、初めてシロフォン奏者として録音を残した。1901年までには21タイトルの録音を同社に残し、ポルカ、ギャロップ、ワルツ、流行歌などをレパートリーとした。

1902年以降には the United States Phonograph Company, the New Jersey Phonograph Company, the Bettini Phonograph Laboratory, the Reed and Dawson Companyなどにも録音を残している。

2012年6月21日木曜日

Charles A. Prince

1869年生。1937年没。ピアニスト。オルガニスト。

彼が最初に録音を残したのは 1891年、New York Phonograph Co.への録音だった。録音としては蓄音機黎明期のものである。
1890年代後半にはColumbiaレーベルの看板バンドColumbia Orchestraの指揮を務めるようになる。Columbiaでの活動は1902年から1923年にまで及んだ。
また、1902年にはColumbiaレーベルによる初のグランド・オペラ録音を指揮し、1917年には
同レーベル初のクラシック曲の録音であるRichard Wagnerによる"Rienzi Overture"を遺した。
 
W. C. Handyによる"St. Louis Blues"及び"The Memphis Blues"等の現在に残るスタンダードソングを最初期に取り上げたことでも知られる。

 

Bernie Cummins

1900年生。1986年没。オハイオ州アクロン出身。

青年期にはオハイオ州のローカルバンドでドラムを演奏する傍ら、ボクサーとして活動した。19年には自身のバンドを組みインディアナ州でデビュー。バンドは徐々に規模を大きくし、Dorothy Crane,Jerry Lang, Bernie's brother Walter Cummins, Scottee Marshらが演奏した。

Andrew Sistersが流行し始めた頃にはthe Sophisticatesという女性3名によるボーカルグループを採用し、登用した。この頃のバンドメンバーにはCharlie CallasRandy Brooksらが挙げられる。

自身のバンドのリーダーを務める傍らThe Wolverinesのマネージャーを担当したことでも知られている。

多くのレーベルに録音を残したが、主に中西部を演奏の活動拠点とした。彼らの演奏は大きなホテルやボールルームに気に入られ、Biltmore HotelHotel New Yorker
Edgewater Beach Hotelなどで演奏した。

50年代に入り、バンドの演奏場所を見つけることが難しくなってからはラスベガスにて、 The Flamingo, El Rancho, Last Frontierなどの場所で演奏した。59年、バンドは解散した。

2012年6月19日火曜日

Art Kahn

生没年不明。出身地不明。

ローリング・トゥエンティーズの時代、Art Kahn and His Orchestraを率いた事で知られる。
同バンドはRuth Ettingを含む多くの歌手の伴奏を務めた。

1936年の映画、"Gags and Gals" には短い時間ながら出演している。


2012年6月17日日曜日

Albert Von Tilzer

1878年生。1956年没。インディアナ州インディアナポリス出身。

青年期より兄で作曲家だったHarry Von Tilzerの出版社で働く。そのため彼の最初期の楽曲は兄の会社から出版された。間もなく彼は自身の会社を立ち上げる。

その後ティン・パン・アレーのトップソングライターの一人として1900年代から1950年代初頭にいたるまで精力的に楽曲を発表した。Jack Norworth、Lew Brown、Harry MacPhersonらの作詞家と共作。

多くヒット曲を残し、1919年に発表された"Oh By Jingo!"は「エキゾチックな」ノヴェルティ・ソングとして先鞭を着けた。

1908年に発表された"Take Me Out To The Ball Game"はあまりに有名。100年以上経った今でも野球ファンたちのアンセムとして親しまれている。

2012年6月13日水曜日

Billy Murray

1877年生。1954年没。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。
アイルランド移民の両親の元に生まれる。コロラド州デンバーで育つ。
劇場に興味を惹かれるようになった彼は、93年、旅回りのボードビルに参加する。キャリアの初期にはミンストレルショウにも出演した。
1897年に初めてのレコーディングを行う。1903年には定期的にニューヨーク、ニュージャージーでの録音活動を行うようになる。
1906年にはよく知られているAda Jonesとのデュエットでの録音を始め、また他にはAileen Stanley, the Haydn Quartet, the American QuartetElsie Bakerらと共演した。
ロマンティックな歌曲やバラードが優れたセールスを残したが、後年のコレクターによってコミック・ソング、ノヴェルティ・ソングについて再評価されることとなった。
20年代半ばに導入された電気録音、及びそれに伴い流行した「クルーナー唱法」によって、彼の人気は傾いたが、アニメーションの声優や、ラジオ出演などで活躍した。



2012年6月11日月曜日

Arthur Pryor

1870年生。1942年没。ミズーリ州セント・ジョセフ出身。
幼少期より演奏を始め、11歳の頃までバルブ・トロンボーンの演奏を、15歳になるまでにはスライド・トロンボーンをマスターし父の率いるバンドで演奏していた。神童として知られるようになる。
コロラド州デンバーのStanley Opera Companyを経て 1982年、 John Philip Sousaのバンドに加入する。
22歳の頃ソロを任されるようになり12年間のあいだに10000にも上る数のソロを演奏した。1895年から1903年まではアシスタントコンダクターを務めている。
バンドを去った彼は自身のバンドを結成し、1903年ニューヨークのMajestic Theatreで初演する。1909年までツアーを繰り返し、ニュージャージー州アズベリーパークに落ち着く。
この頃彼はVictor Talking Machine Companyのコンダクター、アレンジャーも務めるようになる。
1933年に引退した後にニュージャージーで民主党議員となる。



2012年6月9日土曜日

Don Redman

1900年生。1964年没。ウェストバージニア州ピエモン出身。
父は音楽教師、母は歌手という音楽一家に生まれ3歳の頃よりトランペットを演奏するようになった。6歳のころに初めてバンドに参加し、12歳になる頃にはオーボエからピアノに至るまで演奏する事ができるようになっていた。
大学入学後はBilly Page's Broadway Syncopatersに参加。23年からはFletcher Henderson楽団にクラリネット・サックス奏者として参加。30年代半ばにHendersonが自身でアレンジを務めるようになるまで、彼は同オーケストラの主たるアレンジャーとして活躍した。
27年にはJean Goldketteのオファーを受けデトロイトのMcKinney's Cotton Pickersのバンドリーダーを務めるようになる。
31年には自身のバンドを結成し、マンハッタンのConnie's Inn.を中心に演奏するようになる。Brunswick Records 及びラジオ放送での録音の契約を結び、フライシャースタジオ制作のI Heard,に音楽提供をした。
31年から34年にかけ彼がBrunswickに残した録音はスイング期以前の最も洗練されたアレンジメントとして評価されている。