2012年5月29日火曜日

Stuff Smith

1909年生。1967年没。オハイオ州ポーツマス出身。
ステファン・グラッペリ、ジョー・ヴェヌーティらと並んでバイオリンをジャズ演奏の楽器として演奏した黎明期の一人。
父に習いバイオリンを始める。あこがれのプレイヤーはルイ・アームストロングだった。
20年代、シカゴにてアルフォンス・トレントのバンドで演奏するようになる。
ニューヨークに移り、35年には自身のセクステットで演奏するようになる。この時期、コールマン・ホーキンス、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらとも共演している。
初めてバイオリンに電気的な増幅回路を使用したプレイヤーとされる。
53年、サン・ラと共演した楽曲は"Deep Purple"に収録されている。



2012年5月27日日曜日

Mae Questel

1908年生。1998年没。ニューヨーク出身。
両親に反対を受けるも、演劇学校に入学。
17歳の時タレントコンテストで Helen Kaneの物真似をし入賞、ボードビルの役者となる。物真似芸人として活躍した。
"Betty Boop"の声優を探していた Max Fleischerに見いだされ同役を務めるようになる。
31年から39年にわたって"Betty Boop"の声を実に150話以上にわたって吹き込む。
"Popeye"のオリーブ役も務めた。


2012年5月25日金曜日

Red Norvo

1908年生。1999年没。イリノイ州ベアーズタウン出身。通称"Mr. Swing"
ペットのポニーを手放し最初のマリンバを買う。25年、シカゴにて"The Collegians"というバンドで演奏活動を始める。
ボードビルのマリンババンドでのツアー、Paul Whiteman, Benny Goodman, Charlie Barnet,、Woody Herman.らのバンドへ参加する。
33年、Brunswickでの彼のレコーディングを聴いたJack Kappとの契約で更に録音をすることになったNorvoはKappの不在時にチェンバージャズの先駆けともいえる"In a Mist" と "Dance of the Octopus"の録音を行ったが、後に戻ったKappはこれを聴き激昂し彼との契約を破棄する。録音参加アーティストはバスクラリネット、Benny Goodman ギターDick McDonough、ベースArtie Bernstein
36年から42年の間には自身のオーケストラを結成しARC社の元に録音を残した。Eddie Sauter のアレンジメント、妻であるMildred Baileyのボーカルがフィーチャーされている。
38年には "Please Be Kind", "Says My Heart"でチャート一位も獲得した。
45年には当時ジャズミュージシャンの間で腫れ物のように扱われていたCharie Parker、Dizzy Gillespieらと録音を残す。
49年より自宅近くの西海岸で仕事をするため大編成のバンドでなくトリオを編成する。Tal FarlowCharles Mingusらがメンバーであった。



2012年5月23日水曜日

Ruth Etting

1897年生。1978年没。ネブラスカ州デイビッドシティ出身。通称"America's Sweetheart of Song"
5歳の時母を失ってから祖父母に育てられる。
17歳の時、アートスクールに入学するためシカゴに移り住む。衣装デザイナーとしてナイトクラブで働き始めたが、じきに歌手を務めるようになる。22年にはギャングのMartin "Moe the Gimp" Snyderと結婚。彼は彼女のマネージメントを務め、コロンビアとの契約にまでこぎ着けた。
27年にはZiegfeld Folliesにおいてブロードウェイデビューを果たしている。
映画にも多数出演。




James P. Johnson

1894年生。1955年没。ニュージャージー州ニューブランズウィック出身。
ストライトピアノのパイオニアとして Jelly Roll Morton,と並び、ラグタイムの時代とジャズの時代を橋渡しとなった人物である。
1908年、彼の家族はニューヨークへと移り住む。幼少期よりJoplinのラグタイム聴いて育った彼は20年になる頃には東海岸のピアニストとして名の通った存在になっていた。17年から27年にかけて彼はいくつかのプレイヤー・ピアノの会社のために仕事をしているが Aeolianでは若き日のGeorge Gershwinに出会っている。Ethel WatersBessie Smith.の伴奏を務めた。
彼の21年の録音は世界で初めて録音されたジャズ・ピアノ・ソロであるとされている。20年代から30年代にかけW.C. Handyの設立したBlack Swan及びColumbiaに録音を残した。

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Cliff Edwards

1895年生。1971年没。通称"Ukelele Ike"ミズーリ州ハンニバル出身。
14歳の時学校を退学しセントルイスで歌手としての活動を始める。セントルイスのバーにはピアノが置いていなく、あっても状態のよくないものであったため楽器屋で一番安かったウクレレを自身の楽器として演奏するようになる。
18年にシカゴで Bob Carleton.との共演で話題を集めるようになる。
Joe Friscoの目に留まった彼はJoeに雇われニューヨークのthe Palaceに出演するようになる。
19年に初のレコーディング。22年はスキャット録音として初期のものも残している。翌年Pathe Recordsと契約。20年代最も人気のある歌手のひとりとなる。ブロードウェイにも出演するようになる。
28年 "I Can't Give You Anything but Love"がシングルチャート一位。29年には"Singin' in the Rain"が3週連続でチャート一位を記録した。
彼は多くの映画に出演したがとりわけディズニー作品"ピノキオ"の Jiminy Cricket役の声優として現在知られている。

Annette Hanshaw

1901年生。1985年没。
彼女は自身の声を好まなかったが、柔らかな彼女の歌い方は20年代のポップスに調和し、フラッパーの時代に"The Personality Girl"と呼ばれ愛された。曲の最後に"That's all"と言うのが彼女のトレードマーク。
26年から34年の間に数多くの録音を残した。26年から28年にはPathe、Perfectに、28年からはColumbiaに録音を残したlabels(Harmony, Diva, Clarion, Velvet Toneで発売)。
ほとんどは自身の名前で発表したが、Gay Ellis (for sentimental numbers) Dot Dare or Patsy Young (for her Helen Kane impersonations) Ethel Bingham, Marion Lee, Janet Shaw, and Lelia Sandfordなどの変名も用いている。
32年からはARCに録音を残し、Melotone, Perfect, Conqueror, Oriole and Romeoなどから発売された。
30年代にキャリアを退いた彼女はPatheレーベル取締役のHerman "Wally" Roseと結婚し暮らした。

アニメーション作品 Sita Sings the Blues,では彼女の曲が多く使用されている。








2012年5月21日月曜日

Plantation Jazz Orchestra

Emerson Studio下のグループとして結成された。ディレクションはHarry Raderman。
Harry Raderman's Plantation Jazz Orchestra、the Plantation Dance Orchestra の名義で録音を残している。
Regal RecordsではJazz Syncopators、MedallionではCarolina Syncopatorsとして録音。

Juan Tizol

1900年生。1984年没。プエルトリコ、ベガ・バーヤ?(Bega Baja)出身。
幼少時より楽器の演奏を始め最初に手にした楽器はバイオリンであったが後にすぐバルブ・トロンボーンの演奏に切り替える。
音楽的教育は市民オーケストラを率いた叔父による。叔父のバンドの元でオペラ、バレエ、ダンスバンドでの演奏機会を得る。
20年に加入したバンドはアメリカへ遠征に赴き、その後続けてアメリカで音楽活動を行うようになる。観光客向けのショーや無声映画の伴奏が主な仕事内容だった。時折与えられたダンスバンドでの演奏を通じて、彼はデューク・エリントンと出会う。
トランペット奏者 Arthur Whetsolの推薦を得て、1929年夏、彼はエリントンのバンドに加入する。同時期トロンボーンセクションに在籍したのはJoe "Tricky Sam" Nanton である。
彼はエリントンのバンドに中南米的要素をおおくもたらした。"Moonlight Fiesta", "Jubilesta", "Conga Brava"などが挙げられる。また、彼の作曲した"Caravan" (1936) 及び "Perdido" (1941)は現在でも多くのミュージシャンによって演奏されている。
44年にはエリントンのバンドを去り、Harry Jamesのバンドに加入した。


John Kirby

1908年生。1952年没。バージニア州ウィンチェスター出身。メリーランド州ボルチモア出身の説もある。
17歳の時ニューヨークへと移ったが、トロンボーンの盗難にあってからはチューバを演奏した。
29年、チューバ奏者としてFletcher Henderson楽団に加入する。30年代初期には同楽団で卓越したチューバ演奏の技術をレコードに残している。ジャズにおいてチューバが使用されなくなるに伴い彼はベーシストへと転向した。
33年一度ヘンダーソン楽団を去ってから後はChick WebbLucky Millinderと共演し、35年には自身のカルテットも結成した。
37年にはOnyx Club Boysを編成。同バンドのメンバーによってVocalion Records にはBillie Holiday and her Orchestra名義での録音も残された。
Kirbyが目指したのはソフトでクラシック的な現在チェンバー・ジャズと呼ばれるものだった。
38年から41年まで彼の人気は確たるものであったが、第二次世界大戦によりメンバーを失う。なんとかバンドを続けようとした彼はDizzy Gillespie, Benny Carter, Ben Webster, Clyde Hart, Budd Johnson, and Zutty Singletonなど著名なアーティストとも演奏した。
演奏家としての地位を失うにつれて彼はアルコールに依存するようになり糖尿病にもなった。戦後 Sarah Vaughanをボーカルに迎えてのセクステット再編、50年カーネギーホールでの演奏などを行ったがいずれも以前ほどの人気を博す事はできなかった。

2012年5月20日日曜日

Meade "Lux" Luwis

1905年生。1965年没。イリノイ州シカゴ出身。
幼少期、Jimmy Yanceyに影響を受ける
1927年、Paramount Recordsから"Honky Tonk Train Blues"でデビュー。
彼は同曲を他のレーベル下で度々演奏したが、1938年、John Hammond主催によるカーネギーホールでのFrom Spirituals to Swingでの演奏の後、大衆の関心を集めるようになった。その後、同コンサートに出演したAlbert AmmonsPete Johnsonとはトリオとして出演するようになり、ブギウギ・スタイルのピアニストの先駆けとなった。
トリオのCafé Societyでの演奏はブルーノートレーベル立ち上げのきっかけとなった。
また、彼はチェレスタに注目した最初のジャズ・ピアニストであった。また、41年にはいくつかのレコードでハープシコードも演奏している。
映画New Orleans (1947) 、Nightmare (1956)、It's a Wonderful Lifeに出演している。
晩年はラグや古いポップソングを演奏していた。
LuwisについてはKurt Vonnegut'作のCat's Cradleなどの作品で触れられている。


2012年5月19日土曜日

George Barns

1921年生。1977年没。イリノイ州サウスシカゴハイツ出身。
Big Bill Broonzyのような歌手の伴奏でギタリストのキャリアを始める。38年までにはNBCスタジオのミュージシャンとして働くようになる。戦後Deccaにオクテットの録音を残す。
40年初めて自身の名義のレコードをOkehからリリースする。タイトルは"I'm Forever Blowing Bubbles"裏面は "I Can't Believe That You're In Love With Me"。
Carl Kressとの共演盤を発表するまでは国内で知名度を獲得する事ができなかった。Kressの死後、彼はBucky Pizzarelliと共演するようになり、2人の関係は70年代まで続いた。
Charlie Christianに6年先駆け31年にはエレクトリック・ギターを演奏している。彼がエレクトリック・ギターでの録音を残したのは1938年が初。




Boswell Sisters

Martha, Connee, Helvetiaの三姉妹によるコーラスグループ。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。
10代より地元の劇場、ラジオに出演するようになる。25年にはビクターに最初の録音を残している。30年ニューヨークに移ってから後、同年にOKeh、31年から35年までにBrunswickに多数の録音を残す。Brunswickに残した録音はボーカル・ジャズのマイルストーンとされる。Conneeによる流行歌の再解釈、Glenn Millerによるアレンジメント、ニューヨークの一流ミュージシャン(The Dorsey Brothers, Benny Goodman, Bunny Berigan, Fulton McGrath, Joe Venuti, Arthur Schutt, Eddie Lang, Joe Tarto, Manny Klein, Dick McDonough, and Carl Kress)らの参加がBoswell Sistersが他のボーカルグループから抜きん出る要因となる。
次女Conneeはまた、ソロシンガーとしてもBrunswickなどに録音を残している。
1934年に発表した"Rock and Roll" は同語の比較的早い時期での用例として知られる。Andrews Sistersは彼女たちのフォロワーとしてシーンに登場した。また、若き日のElla FitzgeraldはBoswell Sisters,とりわけConneeを好んだ。
36年にDeccaと契約したが同年解散した。




Ben Pollack

1903年生。1971年没。イリノイ州シカゴ出身。
独学でドラムを学び、New Orleans Rhythm Kings に参加する。
25年には自身のバンドを結成。バンドメンバーは Gil Rodin など。Rodinは大変に商才があり、後にMusic Corporation of Americaの取締役となる。
Rodinは若き日のGlenn Millerらと共にPollackバンドの取りまとめに務める。頭角を表しつつあった当時16歳のBenny Goodmanも25年より、彼と共演した。
26年にビクターより発売したレコードは優れたセールスを残した。28年からはバンドメンバーであったIrving MillsとともにBanner, Perfect, Domino, Cameo, Lincoln, Romeoなどのレーベルに多数の録音を残す。使用された名義は以下の通り。
(Mills' Merry Makers, Goody's Good Timers, Kentucky Grasshoppers, Mills' Musical Clowns, The Lumberjacks, Dixie Daises, The Caroliners, The Whoopee Makers, The Hotsy Totsy Gang, Dixie Jazz Band, Jimmy Bracken's Toe Ticklersなど)
20年代末、McPartlandやTeagardenを擁した時期にはブロードウェイやパーク・セントラル・ホテルで演奏し大変な成功を収めた。
29年大恐慌の煽りを受け仕事が大きく減る。 Benny GoodmanやJimmy McPartlandがバンドを離れる。33年にはトロンボーンのTeagardenが去り、間もなくして他のメンバーもバンドを去った。Harry JamesやIrving Fazola と共に再度バンドを結成するが大きな成功を収めることはできなかった。2人はバンドを去った後今に知られる成功を収めている。
40年代初頭にはコメディアン、チコ・マルクスのバンドのオーガナイザーとして活動している。その後はレコード・レーベルの経営(Jewel Records)、レストランの経営、いくつかの映画への出演をしていた。
若手の才能を見いだすことに非常に長けていた彼は"Father of Swing"と呼ばれた。71年、自殺。

Ben Selvin

1898年生。1980年没。ロシア移民のユダヤ人を両親に持つ。The Dean of Recorded Musicとして知られる。
15歳の時ニューヨークのナイトクラブでフィドル奏者としてのキャリアをスタートする。
21歳の時に率いたバンドNovelty Orchestraはセールスに恵まれ"Dardanella"は実にレコード500万枚、楽譜200万部のヒットとなった。
ギネスブックによれば78回転のレコードに最も多くのタイトルを発表したのは彼とされる。数多くのレーベルに録音を残したが、その数は13000から20000曲に及ぶ。


2012年5月18日金曜日

Jack Teagarden

1905年生。1964年没。テキサス州バーノン出身。
父はアマチュアのブラス・バンドでトランぺッターをしていた。小さな頃にバリトン・ホーンを学び始めるが、7歳の頃までにはトロンボーンを演奏するようになった。Louisiana Five の演奏を聴きジャズを志す。
彼は独学でトロンボーンを学んだが、一般的でなかったポジショニングや演奏効果を多く見いだした。残した功績から「ジャズ・トロンボーンの父」と呼ばれる。
1920年まで彼はサン・アントニオでプロ演奏家として Peck Kelleyらのバンドで活動していた。 20年代半ばにはアメリカ各地で演奏するようになり、27年、ニューヨークへ移って後28年まではBen Pollackのバンドで演奏した。
ボーカリストとしても録音を残すようになり、とりわけLouis Armstrong、Johnny Mercerとのデュエットが有名である。
彼が20年代に共演した著名な音楽家は以下の通り。( Louis Armstrong, Benny Goodman, Bix Beiderbecke, Red Nichols, Jimmy McPartland, Mezz Mezzrow, Glenn Miller, and Eddie Condon.等)
30年代に活動の拠点をシカゴに移したティーガーデンはWingy Manone らのバンドとの共演、シカゴ万博での演奏などを行った。恐慌後に経済的基盤を求めた彼は33年から38年までPaul Whiteman楽団に参加した。
Whiteman楽団を去った彼は自身のビッグバンドを編成し、39年にGlenn Millerによる"I Swung the Election"などが提供されもしたがバンドは商業的成功を修めることができなかった。
46年、Louis Armstrong's All Starsに参加した彼は後に再び、Earl Hinesらと自身のバンドを結成し、58年、59年には日本へのツアーも行っている。
40年台より評価を確たるものにした彼はBirth of the Blues (1941), The Strip (1951), The Glass Wall (1953), and Jazz on a Summer's Day (1960)などの映画への出演、44年エスクワィア誌、メトロノーム誌からも高く評価され、57年から60年まではプレイボーイ誌のオールスターバンドに選出されている。
彼の残した楽曲は以下の通り。
("I've Got 'It'" with David Rose, "Shake Your Hips", "Big T Jump", "Swingin' on the Teagarden Gate", "Blues After Hours", "A Jam Session at Victor", "It's So Good", "Pickin' For Patsy" with Allan Reuss, "Texas Tea Party" with Benny Goodman, "I'm Gonna Stomp Mr. Henry Lee" with Eddie Condon, "Big T Blues", "Dirty Dog", "Makin' Friends" with Jimmy McPartland, "That's a Serious Thing", and "Jack-Armstrong Blues" with Louis Armstrong, recorded on December 7, 1944 with the V-Disc All-Stars and released as V-Disc 384A.)
1985年、Big Band and Jazz Hall of Fameを与えられた。


Eddie Peabody

1902年生。1970年没。マサチューセッツ州レディング出身。
若い頃より独学でバイオリン、マンドリン、ギター、バンジョーなどの演奏を身に付ける。
1916年より21年まで第一次世界大戦に従事する。
退役した彼はボードビルのエンターテイナーになり、コロンビアに録音を残す。卓越した技術から20年代には"King Of The Banjo"と称された。
第二次世界大戦には音楽家として従事した。
二次大戦後、演奏活動を再開しようとしたが、ボードビルのホールは多く閉鎖し世の中の流行も変わっていた。1948年、Art Mooney楽団による20年代のスタンダード曲"I'm Looking Over a Four Leaf Clover"の再録により高まったノスタルジックなバンジョーへの関心に乗じ、 Dot Recordsからアルバムを数枚発表する。サパー・クラブやテレビの出演を通じて再び知名度を回復した。

Nick Esposito

生没年、出身地不明。
シカゴ・シンフォニー・オーケストラのバイオリン奏者としてキャリアを始める。
すぐにバイオリン工房でも働くようになり、1936年までにはバイオリン製作よりもギター製作に力を入れるようになった。
49年にはカリフォルニア州オークランドの自身の工房でアジャスタブル・ブリッジとダブルカッタウェイを開発。GuildやFenderEKOで仕事をするようになる。
演奏者としてはニューヨーク・フィル初のエレキ・ギター奏者、40年代におけるHenry Busse's bandでの演奏、"Empty Ballroom Blues"のヒット、初期キング・コールトリオへの参加、Julius La Rosa, Dean Martin, Sammy Davis Jr, Frank Sinatraとの共演がある。
59年にはラスべガスへ移り、工房を営む傍ら演奏を続けた。

NO VIDEO

2012年5月17日木曜日

Frank Crumit

1889年生。1943年没。オハイオ州ジャクソン出身。
5歳の時、ミンストレルの役者としてデビュー。
オハイオ大学を電気技師として卒業したが、音楽と19世紀のバラッドへの想いを捨て切ることはできなかった。
1913年よりボードビルのステージに立ち、ウクレレを演奏する。ニューヨークのナイト・スポットでは"the one-man glee club"と称された。
18年にはブロードウェイミュージカルBetty Be Goodに出演。また、20年のGreenwich Village Follies ではDavid B. Zoobと共作した"Sweet Lady,"が取り上げられた。
19年より自身のレコーディングを始める。
妻であるJulia Sandersonとはラジオで共演し、ふたりは"the ideal couple of the air."と呼ばれることもあった。
彼の残したヒットソングは以下の通り。
"Frankie and Johnnie", "Abdul Abulbul Amir", "A Gay Caballero" "The Prune Song", "There's No-one With Endurance Like The Man Who Sells Insurance", "Down In De Canebrake", "I Wish That I'd Been Born in Borneo", "What Kind of a Noise Annoys an Oyster?", "I Learned About Women From Her"
'"The Gay Caballero"'  '"Abdul Abulbul Amir"' を収録したレコード(Decca W-4200)は400万枚を超える売り上げを残した。

2012年5月16日水曜日

Arthur Fields

1888年生。1953年没。
Abraham ("Abe") Finkelsteinとしてフィラデルフィア州ペンシルベニアに生まれる。ニューヨーク州ユーティカで育ち、1908年頃にはミンストレルのパフォーマーとしてプロの歌手になる。
Harry Carroll、Ballard MacDonald らの歌詞によるOn The Mississippi (1912)が彼の最初のヒット曲となる。1914年、彼がAba Daba Honeymoonのために書いた歌詞は1950年制作のMGM映画であるTwo Weeks With Loveにおいて使用された。
1914年より以降彼は、多くのバンド、レーベルに録音を残したがとりわけ1919年 Ford Dabney との録音は黒人をバックミュージシャンとした白人歌手の録音として最初期のものである。
JackとIrvingのKaufman兄弟と結成した、"The Three Kaufields"や多くの変名での録音も残した。


Sam Lanin

1891年生。1977年没。
フィラデルフィアのロシア系ユダヤ移民の家庭に生まれ、兄弟のHoward、Lesterも同様にバンドリーダーである。
幼少期よりバイオリンとクラリネットを演奏し、1912年にVictor Herbertのオーケストラに賛助する。第一次世界大戦後はニューヨークへと拠点を移し、18年よりRoseland Ballroomでの演奏を行う。
Lanin's Jazz Band, Lanin's Arcadians, Lanin's Famous Players, Lanin's Southern Serenaders, Lanin's Red Heads, Sam Lanin's Dance Ensemble, and Lanin's Arkansaw Travelers等の名義で多くの録音を残し、20年台の多くのセッションにリーダーとしてクレジットされている。Ladd's Black Aces, The Broadway Bell-Hops, The Westerners, The Pillsbury Orchestra and Bailey's Lucky Sevenなど。
Phil Napoleon, Miff Mole, Jules Levy Jr.,Red Nichols,Jimmy Dorsey, Tommy Dorsey, Manny Klein, Jimmy McPartland, Bix Beiderbecke, Eddie Lang, Bunny Berigan, Nick Lucas,Frankie Trumbauer. らがレコーディング・メンバーであった。
彼自身は録音において演奏することは稀であった。20年代にはラジオでの演奏も行い、Bristol-Meyerがスポンサーになりもしたが、大恐慌の影響を受け30年代のうちには音楽産業に関わることを辞めてしまう。

Lucille Hegamin

1894年生。1970年没。ジョージア州メイコン出身。
幼い頃から教会の聖歌隊で歌い、15歳までLeonard Harper Minstrel Stock Companyの元、アメリカ南部で公演を行っていた。
1914年イリノイ州シカゴに移った彼女はピアニストのBill Hegaminと結婚するまで、"The Georgia Peach"としてTony JacksonやJelly Roll Mortonらと共演した。彼女は後に"St Louis Blues"をシカゴに広めたのは自身だと語っている。Annette HanshawやRuth Ettingらに影響を与えた。
1920年11月、彼女はMamie Smithに続き、世界で2人目のアフリカン・アメリカン・ブルース・シンガーとして録音を残した。22年までArto Record Labelに録音を残し、22年から26年までCameo Recordsに録音を残し、"Cameo Girl"として知られた。


Arthur Lange

1889年生。1956年没。
ティン・パン・アレーの作曲家であり、120を超える映画作品に音楽を提供した。Hugo Friedhoferと共にフリッツ・ラング監督作品であるThe Woman in the Windowにおいてオスカーにノミネートされる。
20年代前半にはCameo Recordsに多くの作品を残した。23年彼のバンドは Earl OliverやTommy Gottらを擁していた。同年末バンドはRoger Wolfe Kahnにより買収され、26年に至るまでの録音ついて参加したミュージシャンについて知ることはできない。
彼自身はピアノ、バンジョーを演奏したが、バンドにおいては指揮、アレンジに専念した。
1930年当時にはRay Heindorfと居を共にしていたことが知られている。尚、Rayは3度のアカデミー賞を受賞した。


Boyd Senter

1898年生。1982年没。ネブラスカ出身。
オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドのレコードを聴き、ミュージシャンを志す。独特のクラリネットの音色が特徴。
電気録音の最初期にレコーディングを始め、Pathe, Perfect, Paramountなどから発売される。27年にOKehに所属を移し、Eddie Lang, Jack Russellらとトリオを編成する。28年に結成したレコーディング・バンドのメンバーは以下の通り。(Dorsey Brothers, Lang, Russell and either Vic Berton or Stan King on drums, Mickey Bloom)
キャリアを退いた後はミシガンで雑貨屋を営んでいた。


Haydn Quartet

20世紀初頭に"クローズ・ハーモニー"の録音を残した最も有名なボーカル・グループ。1896年、サミュエル・ホランド・ルースがエジソン・スタジオでの録音のため結成した。後に彼らは"エジソン・カルテット"へと改名したが、他社での録音のために"Haydn Quartet"という名義を使用した。Billy MurrayCorinne Morganなど著名なソロ歌手との録音も残した。
1900年代、彼らの活動は大変な成功を修め、"Bring Back My Bonnie To Me" (1901), "Sunbonnet Sue" (1908), and "By The Light Of The Silvery Moon" (1910)などのヒットが挙げられる。1910年以前にはヴォードレルやミンストレルの録音も残し、1904年、ビクター4003番の"The Camp Meeting Jubilee"では"rocking and rolling"というフレーズが最初期の録音として残されている。


Mezz Mezzrow

1899年生。1972年没。イリノイ州シカゴ出身。クラリネット、サックス奏者。30年代から40年代にかけてのBenny Carter, Teddy Wilson, Frankie Newton, Tommy Ladnier, Sidney Bechetらとの共演で知られる。38年、ベシェ、ラドニエらとのセッションは"ニュー・オーリンズ・リバイバル"の火付け役となった。40年代半ばには自身のレーベルである"キング・ジャズ・レコード"を立ち上げる。その後、フランスに居を構え、 Claude Luter, Buck Clayton, Peanuts Holland, Jimmy Archey, Kansas Fields ,Lionel Hamptonらのバンドをオーガナイズする。
また、彼はドラッグ・ディーラーとして有名で、"Mezz"はジャズ・コミュニティにおいて"マリファナ"を意味する隠語であった。Stuff Smithの楽曲"If you're a viper"参照のこと。

Neil Moret

本名Charles.N.Daniel。1878年、カンザス州リーベンワースに生まれる。1904年、'Daniels & Russell Publishing Company'を設立する。1910年代には'Remick Music Company'の取締役となる。サンフランシスコにて自社を1913年に立ち上げ、30年代初頭まで社長を務める。
作曲家としてはGus Kahn, Richard Whiting, Harry Tobias, Gus Arnheim, Edwin Lemare, Ben Blackらとの制作を行う。
自社のカタログは以下の通り。
「His catalog includes such hits as “Margery”, “Hiawatha”, “Moonlight”, “Poppie”, “Silver Heels”, “Hearsease”, “Autumn”, “Cherry”, “Democracy Forever”, “You Tell Me Your Dreams, I’ll Tell You Mine”,”, “On Movile Bay”, “Sluefoot”, “Mickey”, “Moonlight and Roses”, “Chloe”, “She’s Funny That Way”, “Wild Honey”, “Sweet and Lovely”, “Peggy”, “Goodnight My Love” and the serious instrumental “Cavalcade of Marches”」

Lennie Hayton

1908年生。1971年没。ユダヤ人。初期はトラムバウアー楽団のピアニストであった。ホワイトマン楽団でも演奏。彼の作曲にトラム、ヴェヌーティ、ラングらとの"Apple Blossoms"、 "Flying Fingers"、"The Stage is Set"、ドーシーとの"Mood Hollywood"、"Midnight Mood"などがある。また、40年、アーティ・ショウの録音のため、カーマイケル作曲の"Stardust"をアレンジ。40年より、MGMの音楽監督となる。幾度もアカデミー賞に名を連ね、50年、"On The Town"の音楽監督にてアカデミー賞を受賞。52年、「雨に唄えば」のアレンジメントでも知られる。

Phil Napoleon

本名フィリッポ・ナポリ。1901年生。1990年没。マサチューセッツ州ボストン生まれ。クラシックの教育を受け5歳より人前での演奏を始める。ディキシー流のジャズを洗練された白人的サウンドに変化させたホワイト・ジャズ黎明期の人物。レッド・ニコルスやビックスに影響を与えた。米国北東部に'jass'スタイルを持ち込む。フランク・シグノレリらと"オリジナル・メンフィス・ファイヴ"を結成。20年代当時ニューヨークにおいて最も多忙なバンドのひとつだった。とりわけミフ・モールスのトロンボーン演奏がフィーチャーされる。多くのレーベルに録音を残しその際の変名は以下の通り。「Bailey's Lucky Seven, The Southland Six, Ladd's Black Aces, Jazzbo's Carolina Serenaders, Charleston Chasers, and Napoleon's Emperors」彼らのバンドには多くの才能ある白人ミュージシャンが変名で録音を残した。演奏したミュージシャンは以下の通り。「Nichols, Miff Mole, Jimmy Dorsey, Tommy Dorsey, Joe Venuti, Eddie Lang, Sam Lanin, Lennie Hayton, Gene Krupa, Glenn Miller, Babe Russin, Pee Wee Russell, Jack Teagarden, Charlie Teagarden, and Davey Tough」40年代にはジミー・ドーシー楽団でも演奏。59年マイアミに移り住み自身のジャズクラブを開き長年演奏した。