1895年生。1971年没。通称"Ukelele Ike"ミズーリ州ハンニバル出身。
14歳の時学校を退学しセントルイスで歌手としての活動を始める。セントルイスのバーにはピアノが置いていなく、あっても状態のよくないものであったため楽器屋で一番安かったウクレレを自身の楽器として演奏するようになる。
18年にシカゴで Bob Carleton.との共演で話題を集めるようになる。 Joe Friscoの目に留まった彼はJoeに雇われニューヨークのthe Palaceに出演するようになる。
19年に初のレコーディング。22年はスキャット録音として初期のものも残している。翌年Pathe Recordsと契約。20年代最も人気のある歌手のひとりとなる。ブロードウェイにも出演するようになる。
28年 "I Can't Give You Anything but Love"がシングルチャート一位。29年には"Singin' in the Rain"が3週連続でチャート一位を記録した。
彼は多くの映画に出演したがとりわけディズニー作品"ピノキオ"の Jiminy Cricket役の声優として現在知られている。
1908年生。1952年没。バージニア州ウィンチェスター出身。メリーランド州ボルチモア出身の説もある。
17歳の時ニューヨークへと移ったが、トロンボーンの盗難にあってからはチューバを演奏した。
29年、チューバ奏者としてFletcher Henderson楽団に加入する。30年代初期には同楽団で卓越したチューバ演奏の技術をレコードに残している。ジャズにおいてチューバが使用されなくなるに伴い彼はベーシストへと転向した。
33年一度ヘンダーソン楽団を去ってから後はChick Webb やLucky Millinderと共演し、35年には自身のカルテットも結成した。
37年にはOnyx Club Boysを編成。同バンドのメンバーによってVocalion Records にはBillie Holiday and her Orchestra名義での録音も残された。
Kirbyが目指したのはソフトでクラシック的な現在チェンバー・ジャズと呼ばれるものだった。
38年から41年まで彼の人気は確たるものであったが、第二次世界大戦によりメンバーを失う。なんとかバンドを続けようとした彼はDizzy Gillespie, Benny Carter, Ben Webster, Clyde Hart, Budd Johnson, and Zutty Singletonなど著名なアーティストとも演奏した。
演奏家としての地位を失うにつれて彼はアルコールに依存するようになり糖尿病にもなった。戦後 Sarah Vaughanをボーカルに迎えてのセクステット再編、50年カーネギーホールでの演奏などを行ったがいずれも以前ほどの人気を博す事はできなかった。
1921年生。1977年没。イリノイ州サウスシカゴハイツ出身。 Big Bill Broonzyのような歌手の伴奏でギタリストのキャリアを始める。38年までにはNBCスタジオのミュージシャンとして働くようになる。戦後Deccaにオクテットの録音を残す。
40年初めて自身の名義のレコードをOkehからリリースする。タイトルは"I'm Forever Blowing Bubbles"裏面は "I Can't Believe That You're In Love With Me"。
Carl Kressとの共演盤を発表するまでは国内で知名度を獲得する事ができなかった。Kressの死後、彼はBucky Pizzarelliと共演するようになり、2人の関係は70年代まで続いた。
Charlie Christianに6年先駆け31年にはエレクトリック・ギターを演奏している。彼がエレクトリック・ギターでの録音を残したのは1938年が初。
Martha, Connee, Helvetiaの三姉妹によるコーラスグループ。ルイジアナ州ニューオーリンズ出身。
10代より地元の劇場、ラジオに出演するようになる。25年にはビクターに最初の録音を残している。30年ニューヨークに移ってから後、同年にOKeh、31年から35年までにBrunswickに多数の録音を残す。Brunswickに残した録音はボーカル・ジャズのマイルストーンとされる。Conneeによる流行歌の再解釈、Glenn Millerによるアレンジメント、ニューヨークの一流ミュージシャン(The Dorsey Brothers, Benny Goodman, Bunny Berigan, Fulton McGrath, Joe Venuti, Arthur Schutt, Eddie Lang, Joe Tarto, Manny Klein, Dick McDonough, and Carl Kress)らの参加がBoswell Sistersが他のボーカルグループから抜きん出る要因となる。
次女Conneeはまた、ソロシンガーとしてもBrunswickなどに録音を残している。
1934年に発表した"Rock and Roll" は同語の比較的早い時期での用例として知られる。Andrews Sistersは彼女たちのフォロワーとしてシーンに登場した。また、若き日のElla FitzgeraldはBoswell Sisters,とりわけConneeを好んだ。
36年にDeccaと契約したが同年解散した。
1898年生。1980年没。ロシア移民のユダヤ人を両親に持つ。The Dean of Recorded Musicとして知られる。
15歳の時ニューヨークのナイトクラブでフィドル奏者としてのキャリアをスタートする。
21歳の時に率いたバンドNovelty Orchestraはセールスに恵まれ"Dardanella"は実にレコード500万枚、楽譜200万部のヒットとなった。
ギネスブックによれば78回転のレコードに最も多くのタイトルを発表したのは彼とされる。数多くのレーベルに録音を残したが、その数は13000から20000曲に及ぶ。
1905年生。1964年没。テキサス州バーノン出身。
父はアマチュアのブラス・バンドでトランぺッターをしていた。小さな頃にバリトン・ホーンを学び始めるが、7歳の頃までにはトロンボーンを演奏するようになった。Louisiana Five の演奏を聴きジャズを志す。
彼は独学でトロンボーンを学んだが、一般的でなかったポジショニングや演奏効果を多く見いだした。残した功績から「ジャズ・トロンボーンの父」と呼ばれる。
1920年まで彼はサン・アントニオでプロ演奏家として Peck Kelleyらのバンドで活動していた。 20年代半ばにはアメリカ各地で演奏するようになり、27年、ニューヨークへ移って後28年まではBen Pollackのバンドで演奏した。
ボーカリストとしても録音を残すようになり、とりわけLouis Armstrong、Johnny Mercerとのデュエットが有名である。
彼が20年代に共演した著名な音楽家は以下の通り。( Louis Armstrong, Benny Goodman, Bix Beiderbecke, Red Nichols, Jimmy McPartland, Mezz Mezzrow, Glenn Miller, and Eddie Condon.等)
30年代に活動の拠点をシカゴに移したティーガーデンはWingy Manone らのバンドとの共演、シカゴ万博での演奏などを行った。恐慌後に経済的基盤を求めた彼は33年から38年までPaul Whiteman楽団に参加した。
Whiteman楽団を去った彼は自身のビッグバンドを編成し、39年にGlenn Millerによる"I Swung the Election"などが提供されもしたがバンドは商業的成功を修めることができなかった。
46年、Louis Armstrong's All Starsに参加した彼は後に再び、Earl Hinesらと自身のバンドを結成し、58年、59年には日本へのツアーも行っている。
40年台より評価を確たるものにした彼はBirth of the Blues (1941), The Strip (1951), The Glass Wall (1953), and Jazz on a Summer's Day (1960)などの映画への出演、44年エスクワィア誌、メトロノーム誌からも高く評価され、57年から60年まではプレイボーイ誌のオールスターバンドに選出されている。
彼の残した楽曲は以下の通り。
("I've Got 'It'" with David Rose,
"Shake Your Hips", "Big T Jump", "Swingin' on the Teagarden Gate",
"Blues After Hours", "A Jam Session at Victor", "It's So Good", "Pickin'
For Patsy" with Allan Reuss, "Texas Tea Party" with Benny Goodman, "I'm Gonna Stomp Mr. Henry Lee" with Eddie Condon, "Big T Blues", "Dirty Dog", "Makin' Friends" with Jimmy McPartland, "That's a Serious Thing", and "Jack-Armstrong Blues" with Louis Armstrong, recorded on December 7, 1944 with the V-Disc All-Stars and released as V-Disc 384A.)
1985年、Big Band and Jazz Hall of Fameを与えられた。
1902年生。1970年没。マサチューセッツ州レディング出身。
若い頃より独学でバイオリン、マンドリン、ギター、バンジョーなどの演奏を身に付ける。
1916年より21年まで第一次世界大戦に従事する。
退役した彼はボードビルのエンターテイナーになり、コロンビアに録音を残す。卓越した技術から20年代には"King Of The Banjo"と称された。
第二次世界大戦には音楽家として従事した。
二次大戦後、演奏活動を再開しようとしたが、ボードビルのホールは多く閉鎖し世の中の流行も変わっていた。1948年、Art Mooney楽団による20年代のスタンダード曲"I'm Looking Over a Four Leaf Clover"の再録により高まったノスタルジックなバンジョーへの関心に乗じ、 Dot Recordsからアルバムを数枚発表する。サパー・クラブやテレビの出演を通じて再び知名度を回復した。
生没年、出身地不明。
シカゴ・シンフォニー・オーケストラのバイオリン奏者としてキャリアを始める。
すぐにバイオリン工房でも働くようになり、1936年までにはバイオリン製作よりもギター製作に力を入れるようになった。
49年にはカリフォルニア州オークランドの自身の工房でアジャスタブル・ブリッジとダブルカッタウェイを開発。GuildやFenderEKOで仕事をするようになる。
演奏者としてはニューヨーク・フィル初のエレキ・ギター奏者、40年代におけるHenry Busse's bandでの演奏、"Empty Ballroom Blues"のヒット、初期キング・コールトリオへの参加、Julius La Rosa, Dean Martin, Sammy Davis Jr, Frank Sinatraとの共演がある。
59年にはラスべガスへ移り、工房を営む傍ら演奏を続けた。
1889年生。1943年没。オハイオ州ジャクソン出身。
5歳の時、ミンストレルの役者としてデビュー。
オハイオ大学を電気技師として卒業したが、音楽と19世紀のバラッドへの想いを捨て切ることはできなかった。
1913年よりボードビルのステージに立ち、ウクレレを演奏する。ニューヨークのナイト・スポットでは"the one-man glee club"と称された。
18年にはブロードウェイミュージカルBetty Be Goodに出演。また、20年のGreenwich Village FolliesではDavid B. Zoobと共作した"Sweet Lady,"が取り上げられた。
19年より自身のレコーディングを始める。
妻であるJulia Sandersonとはラジオで共演し、ふたりは"the ideal couple of the air."と呼ばれることもあった。
彼の残したヒットソングは以下の通り。
"Frankie and Johnnie", "Abdul Abulbul Amir",
"A Gay Caballero" "The Prune Song", "There's No-one With Endurance Like The
Man Who Sells Insurance", "Down In De Canebrake", "I Wish That I'd Been
Born in Borneo", "What Kind of a Noise Annoys an Oyster?", "I
Learned About Women From Her"
'"The Gay Caballero"' '"Abdul Abulbul Amir"' を収録したレコード(Decca W-4200)は400万枚を超える売り上げを残した。
1888年生。1953年没。
Abraham ("Abe") Finkelsteinとしてフィラデルフィア州ペンシルベニアに生まれる。ニューヨーク州ユーティカで育ち、1908年頃にはミンストレルのパフォーマーとしてプロの歌手になる。
Harry Carroll、Ballard MacDonald らの歌詞によるOn The Mississippi (1912)が彼の最初のヒット曲となる。1914年、彼がAba Daba Honeymoonのために書いた歌詞は1950年制作のMGM映画であるTwo Weeks With Loveにおいて使用された。
1914年より以降彼は、多くのバンド、レーベルに録音を残したがとりわけ1919年 Ford Dabney との録音は黒人をバックミュージシャンとした白人歌手の録音として最初期のものである。
JackとIrvingのKaufman兄弟と結成した、"The Three Kaufields"や多くの変名での録音も残した。
1891年生。1977年没。
フィラデルフィアのロシア系ユダヤ移民の家庭に生まれ、兄弟のHoward、Lesterも同様にバンドリーダーである。
幼少期よりバイオリンとクラリネットを演奏し、1912年にVictor Herbertのオーケストラに賛助する。第一次世界大戦後はニューヨークへと拠点を移し、18年よりRoseland Ballroomでの演奏を行う。
Lanin's Jazz Band, Lanin's Arcadians, Lanin's Famous Players, Lanin's
Southern Serenaders, Lanin's Red Heads, Sam Lanin's Dance Ensemble, and
Lanin's Arkansaw Travelers等の名義で多くの録音を残し、20年台の多くのセッションにリーダーとしてクレジットされている。Ladd's Black Aces, The Broadway
Bell-Hops, The Westerners, The Pillsbury Orchestra and Bailey's Lucky
Sevenなど。 Phil Napoleon, Miff Mole, Jules Levy Jr.,Red Nichols,Jimmy Dorsey, Tommy Dorsey, Manny Klein, Jimmy McPartland, Bix Beiderbecke, Eddie Lang, Bunny Berigan, Nick Lucas,Frankie Trumbauer. らがレコーディング・メンバーであった。
彼自身は録音において演奏することは稀であった。20年代にはラジオでの演奏も行い、Bristol-Meyerがスポンサーになりもしたが、大恐慌の影響を受け30年代のうちには音楽産業に関わることを辞めてしまう。
1898年生。1982年没。ネブラスカ出身。
オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドのレコードを聴き、ミュージシャンを志す。独特のクラリネットの音色が特徴。
電気録音の最初期にレコーディングを始め、Pathe, Perfect, Paramountなどから発売される。27年にOKehに所属を移し、Eddie Lang, Jack Russellらとトリオを編成する。28年に結成したレコーディング・バンドのメンバーは以下の通り。(Dorsey Brothers, Lang, Russell and either Vic Berton or Stan
King on drums, Mickey Bloom)
キャリアを退いた後はミシガンで雑貨屋を営んでいた。
20世紀初頭に"クローズ・ハーモニー"の録音を残した最も有名なボーカル・グループ。1896年、サミュエル・ホランド・ルースがエジソン・スタジオでの録音のため結成した。後に彼らは"エジソン・カルテット"へと改名したが、他社での録音のために"Haydn Quartet"という名義を使用した。Billy MurrayやCorinne Morganなど著名なソロ歌手との録音も残した。
1900年代、彼らの活動は大変な成功を修め、"Bring Back My Bonnie To Me" (1901), "Sunbonnet Sue" (1908), and "By The Light Of The Silvery Moon" (1910)などのヒットが挙げられる。1910年以前にはヴォードレルやミンストレルの録音も残し、1904年、ビクター4003番の"The Camp Meeting Jubilee"では"rocking and rolling"というフレーズが最初期の録音として残されている。
本名Charles.N.Daniel。1878年、カンザス州リーベンワースに生まれる。1904年、'Daniels & Russell Publishing Company'を設立する。1910年代には'Remick Music Company'の取締役となる。サンフランシスコにて自社を1913年に立ち上げ、30年代初頭まで社長を務める。
作曲家としてはGus Kahn, Richard Whiting, Harry Tobias, Gus Arnheim, Edwin Lemare, Ben Blackらとの制作を行う。
自社のカタログは以下の通り。
「His catalog includes such hits as “Margery”, “Hiawatha”, “Moonlight”,
“Poppie”, “Silver Heels”, “Hearsease”, “Autumn”, “Cherry”, “Democracy
Forever”, “You Tell Me Your Dreams, I’ll Tell You Mine”,”, “On Movile
Bay”, “Sluefoot”, “Mickey”, “Moonlight and Roses”, “Chloe”, “She’s Funny
That Way”, “Wild Honey”, “Sweet and Lovely”, “Peggy”, “Goodnight My
Love” and the serious instrumental “Cavalcade of Marches”」
本名フィリッポ・ナポリ。1901年生。1990年没。マサチューセッツ州ボストン生まれ。クラシックの教育を受け5歳より人前での演奏を始める。ディキシー流のジャズを洗練された白人的サウンドに変化させたホワイト・ジャズ黎明期の人物。レッド・ニコルスやビックスに影響を与えた。米国北東部に'jass'スタイルを持ち込む。フランク・シグノレリらと"オリジナル・メンフィス・ファイヴ"を結成。20年代当時ニューヨークにおいて最も多忙なバンドのひとつだった。とりわけミフ・モールスのトロンボーン演奏がフィーチャーされる。多くのレーベルに録音を残しその際の変名は以下の通り。「Bailey's Lucky Seven, The Southland Six, Ladd's Black Aces, Jazzbo's
Carolina Serenaders, Charleston Chasers, and Napoleon's Emperors」彼らのバンドには多くの才能ある白人ミュージシャンが変名で録音を残した。演奏したミュージシャンは以下の通り。「Nichols, Miff Mole, Jimmy Dorsey, Tommy Dorsey, Joe Venuti, Eddie Lang, Sam Lanin, Lennie Hayton, Gene Krupa, Glenn Miller, Babe Russin, Pee Wee Russell, Jack Teagarden, Charlie Teagarden, and Davey Tough」40年代にはジミー・ドーシー楽団でも演奏。59年マイアミに移り住み自身のジャズクラブを開き長年演奏した。