2012年6月28日木曜日

Charles P. Lowe

生没年、出身地不明。

名の知れたボードビルの演者であった彼は、「マーチ王」Sousaのバンドでソロイストを務めることもあった。Edison’s National Phonograph Companyに1896年、初めてシロフォン奏者として録音を残した。1901年までには21タイトルの録音を同社に残し、ポルカ、ギャロップ、ワルツ、流行歌などをレパートリーとした。

1902年以降には the United States Phonograph Company, the New Jersey Phonograph Company, the Bettini Phonograph Laboratory, the Reed and Dawson Companyなどにも録音を残している。

Harold Arlen

1905年生。1985年没。ニューヨーク州バファロー出身。

その生涯に500以上の楽曲を作曲し、とりわけ「オズの魔法使い」、"Over the Rainbow”の作曲で知られる。"Over the Rainbow”はRIAA及びNEAによって20世紀のベスト・ソングに選出された。

ユダヤ教のカントールの元に生まれる。若い頃からピアノの演奏、バンド演奏などを通じて地元でピアニスト、歌手として名を知られるようになる。
20年代前半にはニューヨークへと移り、ボードビルの伴奏者として演奏するようになる。
26年から34年にかけては The Buffalodians, Red Nichols, Joe Venuti, Leo ReismanEddie Duchinらのバンドでボーカリストとして録音を残している。

29年には作詞家Ted Koehlerとのコンビで"Get Happy"を発表しヒットを残す、以降30年代半ばまで、ブロードウェイなどに加え、Koehlerとはコットンクラブのショウのために作曲を行った。

30年代半ばには結婚、カリフォルニアを生活の拠点とし、ミュージカル映画への作曲に専心するようになった。この頃、作詞家 E.Y. "Yip" Harburgとのコンビを組み"Over the Rainbow”を作曲するに至った。

40年代には作詞家Johnny Mercer とコンビを組み"Blues in the Night", "That Old Black Magic," "Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive," "Any Place I Hang My Hat Is Home", "Come Rain or Come Shine", "One for My Baby (and One More for the Road)"等多くヒットを残した。


Rodgers and Hart

作曲家 Richard Rodgers(1902–1979)と作詞家Lorenz Hart(1895–1943)による作曲チーム。1919年からHartの亡くなる1943年まで28のミュージカルの為に500を超える曲を制作した。

1919年コロンビア大学に在学した2人はアマチュアのショーの為にペアを組み作曲することになる。ショーの後もパートナーとして作曲を続け、1925年The Garrick Gaietiesで初めてブロードウェイでの成功を収める。 その後彼らはすぐに国内での人気と知名度を獲得し、25年から31年の間には彼らの15のスコアがブロードウェイで取り上げられた。

30年代初頭にはハリウッドに活動の拠点を移し、35年にブロードウェイに戻ってから43年までに多くのヒットを記録した。

彼らの曲は多くのジャズシンガーに愛され、Ella Fitzgeraldは彼らの楽曲集を制作した。


2012年6月26日火曜日

Frank Teschemacher

1906年生。1932年没。ミズーリ州カンザスシティ出身。

出身はカンザスであるが、音楽活動はシカゴを本拠地に行われた。
最初期はバイオリン、バンジョーの演奏をしていた彼は25年、本格的にクラリネットの演奏を始める。28年には自身の名義で録音を始め、また非公式の客演も多くこなす。彼の演奏は後のBenny Goodman、Pee Wee Russellに影響を与えた。

32年、自動車事故により死去。


Muggsy Spanier

1906年生。1967年没。

プリ・ビックス(Bix Beiderbecke)期を代表するトランペット/コルネット奏者。Muggsy Spanier and His Ragtime Bandなどを率い、伝統的なジャズにスウィング・リズム・セクションを持ち込んだ。

ディキシーランドジャズの演奏を多く残した彼だが、50年代にはEarl Hines
との共演でも知られている。

60年代に入り、演奏活動を退く。彼の演奏スタイルはトランペット/コルネットにおける先人であるKing Oliver及びLouis Armstrongに多く影響受けたもので、影響の元自身のスタイルを確立した。

2012年6月25日月曜日

Zez Confrey

1895年生。1971年没。イリノイ州ペル出身。

一次大戦後、QRS piano roll companyのピアニスト、アレンジャーを務めるようになる。また、AMPICO Companyでも録音を遺した。

彼が21年に発表したノヴェルティ・ピアノ曲の "Kitten on the Keys,"はヒットになり、彼は同ジャンルで作品を多く発表した。

20年代にはジャズバンドのために作曲を行うことが多くなり、二次大戦後には音楽活動の一線を退いた。

代表曲は"Kitten on the Keys" 及び"Dizzy Fingers"。




2012年6月21日木曜日

Charles A. Prince

1869年生。1937年没。ピアニスト。オルガニスト。

彼が最初に録音を残したのは 1891年、New York Phonograph Co.への録音だった。録音としては蓄音機黎明期のものである。
1890年代後半にはColumbiaレーベルの看板バンドColumbia Orchestraの指揮を務めるようになる。Columbiaでの活動は1902年から1923年にまで及んだ。
また、1902年にはColumbiaレーベルによる初のグランド・オペラ録音を指揮し、1917年には
同レーベル初のクラシック曲の録音であるRichard Wagnerによる"Rienzi Overture"を遺した。
 
W. C. Handyによる"St. Louis Blues"及び"The Memphis Blues"等の現在に残るスタンダードソングを最初期に取り上げたことでも知られる。

 

Bernie Cummins

1900年生。1986年没。オハイオ州アクロン出身。

青年期にはオハイオ州のローカルバンドでドラムを演奏する傍ら、ボクサーとして活動した。19年には自身のバンドを組みインディアナ州でデビュー。バンドは徐々に規模を大きくし、Dorothy Crane,Jerry Lang, Bernie's brother Walter Cummins, Scottee Marshらが演奏した。

Andrew Sistersが流行し始めた頃にはthe Sophisticatesという女性3名によるボーカルグループを採用し、登用した。この頃のバンドメンバーにはCharlie CallasRandy Brooksらが挙げられる。

自身のバンドのリーダーを務める傍らThe Wolverinesのマネージャーを担当したことでも知られている。

多くのレーベルに録音を残したが、主に中西部を演奏の活動拠点とした。彼らの演奏は大きなホテルやボールルームに気に入られ、Biltmore HotelHotel New Yorker
Edgewater Beach Hotelなどで演奏した。

50年代に入り、バンドの演奏場所を見つけることが難しくなってからはラスベガスにて、 The Flamingo, El Rancho, Last Frontierなどの場所で演奏した。59年、バンドは解散した。

2012年6月19日火曜日

Ernie Andrews

1927年生。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。

ジャズ・ブルース歌手。
ロサンゼルスで育ち、教会の聖歌隊などに参加した。高校在学中にはG&G labelにいくつかのヒットを残す。初期の歌唱はBilly EckstineAl Hibbler影響を受けたものだったがその円熟を迎えJoe Williamsに準えられるようになる。

40年代後半にはAladdin, Columbia,Londonなどのレーベルに録音を残しHarry James楽団では6年間にわたりボーカルを務める。

60、70年代には知名度を落とすが、80年代に再度評価を得る。

ドキュメンタリー映画Blues for Central Avenue出演。

Art Kahn

生没年不明。出身地不明。

ローリング・トゥエンティーズの時代、Art Kahn and His Orchestraを率いた事で知られる。
同バンドはRuth Ettingを含む多くの歌手の伴奏を務めた。

1936年の映画、"Gags and Gals" には短い時間ながら出演している。


2012年6月18日月曜日

Harry Warren

1893年生。1981年没。ニューヨーク州ブルックリンで育つ。

イタリア系移民の両親の元に生まれる。家庭には音楽教育を施す経済的余裕がなかったため、独学で父の持っていたアコーディオンを演奏するようになる。

教会での聖歌隊にも参加しドラムの演奏を習得、14歳のころにプロとして活動を始め16歳の頃には高校をドロップアウトする。すぐにピアノの演奏もマスターした彼は1915年になるころには Vitagraph Motion Picture Studios で働くようになる。また、同時期カフェや無声映画の劇場でも演奏した。

主に映画への楽曲提供を行った彼は1918年から1981年までに800以上の楽曲を発表し、それらは300を超える映画に使用された。1929年から1932年にはASCAP(米著作権団体)の理事を務めた。

1942年、Glenn Miller楽団により演奏された"Chattanooga Choo-Choo"は120万枚を売り上げ歴史上初のゴールデン・ディスクとなった。

代表曲に"There Will Never Be Another You", "I Only Have Eyes for You"等。



2012年6月17日日曜日

Albert Von Tilzer

1878年生。1956年没。インディアナ州インディアナポリス出身。

青年期より兄で作曲家だったHarry Von Tilzerの出版社で働く。そのため彼の最初期の楽曲は兄の会社から出版された。間もなく彼は自身の会社を立ち上げる。

その後ティン・パン・アレーのトップソングライターの一人として1900年代から1950年代初頭にいたるまで精力的に楽曲を発表した。Jack Norworth、Lew Brown、Harry MacPhersonらの作詞家と共作。

多くヒット曲を残し、1919年に発表された"Oh By Jingo!"は「エキゾチックな」ノヴェルティ・ソングとして先鞭を着けた。

1908年に発表された"Take Me Out To The Ball Game"はあまりに有名。100年以上経った今でも野球ファンたちのアンセムとして親しまれている。

2012年6月16日土曜日

Kid Ory

1886年生。1973年没。ルイジアナ州ラプラス出身。

幼少期より自家製の楽器で演奏を始め、10代の内にはバンドを率いるようになる。
21まで親により地元を離れることを許されなかったが、21歳を迎えルイジアナ州ニューオーリンズに活動の拠点を移す。

 彼は若い頃バンジョー奏者であったがこのことが「テールゲート」と呼ばれるリズミックなトロンボーン演奏が生まれる元になったとされる。

1910年代にはJoe "King" Oliver, Mutt Carey, Louis Armstrong, Johnny Dodds, Jimmie Noone
といったトッププレイヤーたちを擁し、 彼のバンドは当時のニューオーリーンズで最も有名なバンドとなった。

1919年、ロサンゼルスに移った彼はピアニストのDink Johnson, ベーシストのEd Garlandらと共演・レコーディングした。

1925年にはシカゴへと移り、Louis Armstrong, Jelly Roll Morton, Joe "King" Oliver, Johnny Dodds, Bessie Smith, Ma Raineyらと共演する。また、 Benny Goodman, Charles Mingusらは彼に師事した。

大恐慌の時代一度音楽から退くも、43年に復帰、その後60年代初頭までニューオーリンズスタイルの演奏を続け、40年代初頭にはニューオーリンズ・ジャズ再評価のきっかけを与えた。





Six Brown Brothers

1906年当時、カナダでカルテットとして活動していたRingling Brothersがその原型となった。
Tom Brownを中心としたグループはその後兄弟の加入を繰り返し、1912年、Williamの加入を以て兄弟六人の編成となった。

1914年頃までは 各地でのミンストレル・ボードビルのステージで演奏し、マルチ・プレイヤーであった彼らはトロンボーン、コルネット、マリンバなどを演奏したが、同年兄弟達はサックスでアンサンブル演奏を行うようになった。

20年代以降のサックスの流行を形作ったとされるSix Brown Brothersだが、その人気はTomの演劇的才能(ブラック・フェイスでのパントマイム、サックスの曲芸演奏)によるものだったという。

1914年から1920年にかけてVictorに録音を残す。しかしあくまで彼らは舞台を好むパフォーマーであった。

33年解散。


楽曲のクレジットは1917年。同年オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズの「初」録音を残していますが当時ディキシーランドジャズはその編成にサックスを含んでいませんでした。サックスが現在の地位を獲得するに至るには後の名演奏家の登場を待ちます。


2012年6月14日木曜日

Red Foley

1910年生。1968年没。ケンタッキー州ブルーリック出身。

音楽一家に生まれた彼は9歳になる頃にはすでに父の営む雑貨店でフレンチ・ハープ、ピアノ、バンジョー、トロンボーン、ハーモニカ、ギターなどを演奏していた。
 17歳の頃州のタレントショウで優勝した彼は同州コビントンでシンガーを務めるようになる。

1930年大学一年生の頃スカウトを受け33年ファーストシングル"Life is Good Enough for Me/Lonesome Cowboy"を発売する。
39年にはカントリーのミュージシャンとして初めて全国放送のラジオホストをNBC制作のAvalon Timeにて務める。
1941年にDeccaとの永続的な契約を結んだ彼は同年"Old Shep"をリリースする。同曲は後にHank SnowElvis Presleyらによってカバーされ、カントリーのクラシック曲となる。44年に発表した"Smoke on the Water"はフォークのチャートで13週にわたり一位を記録した。

46年NBC制作のGrand Ole OpryのコーナーであったThe Prince Albert Showの司会、出演者を務めるようになり、その後 8年間の活躍を通してカントリーミュージックのトップアーティストとして知られるようになる。また、同番組もカントリーミュージックの最も権威あるプログラムになるに至った。

その後もナンバーワン・ヒットを多く記録した彼が51年録音した "(There'll Be) Peace in the Valley (for Me)"はゴスペル音楽として初めて100万枚の販売を達成した。 50年代以降は主にテレビに露出し、広く親しまれた。

「ミスター・カントリーミュージック」と称され、生涯を通じて2500万枚以上のセールスを残した。

Rudy Vallée

1901年生。1986年没。バーモント州アイランドポンド出身。
本名Hubert Prior Vallée
高校時代にドラムを演奏、その後10代のうちにニューイングランドの様々なバンドでクラリネットとサックスを演奏する。
15歳の時生年月日を偽り第一次世界大戦に志願する。後に詐称に気付いた米海軍により除隊される。
24年から25年に掛けてロンドン、サボイホテルのSavoy Havana Bandで演奏する。彼はボーカリストを志望したが、同バンドメンバーはボーカルを勧めなかった。
イェール大学で哲学を学ぶため帰国。Rudy Vallée and the Connecticut Yankeesを結成。ボーカルを務めるようになる。彼の容姿も相まって若い女性に人気を博す。
28年にはラジオ演奏を始める。
彼の柔らかな歌唱は「クルーナー」として最初期のものであり、後のBing Crosby, Frank Sinatra, Perry Comoらに影響を与えた。
また彼は20世紀最初期のポップスターであり、フラッパー達の中に熱狂的なファンが生まれた。
30年代から40年代にかけThe Royal Gelatin Hour などの人気番組でホストを務めた。37年に休暇を取りラジオ放送を休んだときは代役にLouis Armstrongを立てるようスポンサーに指示し、これはアフロ・アメリカンが国営ラジオ放送で主役を務める最も早い例となった。
映画「カサブランカ」で注目を集める43年録音の"As Time Goes By"が彼の最後のヒット曲となったがその後も精力的に活動した。




2012年6月13日水曜日

Billy Murray

1877年生。1954年没。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。
アイルランド移民の両親の元に生まれる。コロラド州デンバーで育つ。
劇場に興味を惹かれるようになった彼は、93年、旅回りのボードビルに参加する。キャリアの初期にはミンストレルショウにも出演した。
1897年に初めてのレコーディングを行う。1903年には定期的にニューヨーク、ニュージャージーでの録音活動を行うようになる。
1906年にはよく知られているAda Jonesとのデュエットでの録音を始め、また他にはAileen Stanley, the Haydn Quartet, the American QuartetElsie Bakerらと共演した。
ロマンティックな歌曲やバラードが優れたセールスを残したが、後年のコレクターによってコミック・ソング、ノヴェルティ・ソングについて再評価されることとなった。
20年代半ばに導入された電気録音、及びそれに伴い流行した「クルーナー唱法」によって、彼の人気は傾いたが、アニメーションの声優や、ラジオ出演などで活躍した。



2012年6月12日火曜日

Fred Lowery

1909年生。1984年没。テキサス州パレスティン出身。
プロの口笛奏者。2歳の時猩紅熱で視力を失う。
LeRoy Holmesの指揮、アレンジで発売されたThe High and the Mighty はビルボードで9位を記録するヒットとなった。
30年代から40年代にかけ主にHorace HeidtVincent Lopezらと共演した。
39年に発売されたIndian Love Callは2百万枚を売り上げた。
カーネギーホール、ホワイトハウスでの演奏も行っている。

2012年6月11日月曜日

Arthur Pryor

1870年生。1942年没。ミズーリ州セント・ジョセフ出身。
幼少期より演奏を始め、11歳の頃までバルブ・トロンボーンの演奏を、15歳になるまでにはスライド・トロンボーンをマスターし父の率いるバンドで演奏していた。神童として知られるようになる。
コロラド州デンバーのStanley Opera Companyを経て 1982年、 John Philip Sousaのバンドに加入する。
22歳の頃ソロを任されるようになり12年間のあいだに10000にも上る数のソロを演奏した。1895年から1903年まではアシスタントコンダクターを務めている。
バンドを去った彼は自身のバンドを結成し、1903年ニューヨークのMajestic Theatreで初演する。1909年までツアーを繰り返し、ニュージャージー州アズベリーパークに落ち着く。
この頃彼はVictor Talking Machine Companyのコンダクター、アレンジャーも務めるようになる。
1933年に引退した後にニュージャージーで民主党議員となる。



Victor Young

1900年生。1956年没。シカゴ出身。
音楽一家に生まれ6歳の頃からバイオリンの演奏を始める。10歳の頃ヨーロッパに移り住みピアノなどの演奏を学ぶ。
十代の頃よりWarsaw Philharmonicでのバイオリニストを務め、20歳の時シカゴに戻り、オーケストラなどで演奏するが30年代半ば、映画音楽に専念するためハリウッドへ移る。BIng Crosbyなどのバッキング演奏を指揮し、作曲では"Stella by Starlight"で広く知られる。

31年にはBrunswickと契約しスタジオミュージシャンを率いたが、参加したミュージシャンは Bunny Berigan, Tommy Dorsey, Jimmy Dorsey, Joe Venuti, Arthur Schutt, Eddie Langと当時のトップミュージシャンたちだった。起用されたボーカリスト達は Paul Small, Dick Robertson, Harlan Lattimore, Smith Ballew, Helen Rowland, Frank Munn, The Boswell Sisters, Lee Wileyなどである。 
39年にはJudy Garland及びKen Darbyの歌唱による"The Wizard of Oz"のサウンド・トラック・アルバムを制作している。


Mitchell Torok

1929年生。テキサス州ヒューストン出身。
ハンガリー移民の両親の元に生まれる。
53年にリリースした "Mexican Joe"がヒットし同年"Caribbean"をリリース。ビルボードのカントリー、ジュークボックスのチャートで一位を獲得する。その後実に24週に渡りチャートに留まった。



2012年6月9日土曜日

Don Redman

1900年生。1964年没。ウェストバージニア州ピエモン出身。
父は音楽教師、母は歌手という音楽一家に生まれ3歳の頃よりトランペットを演奏するようになった。6歳のころに初めてバンドに参加し、12歳になる頃にはオーボエからピアノに至るまで演奏する事ができるようになっていた。
大学入学後はBilly Page's Broadway Syncopatersに参加。23年からはFletcher Henderson楽団にクラリネット・サックス奏者として参加。30年代半ばにHendersonが自身でアレンジを務めるようになるまで、彼は同オーケストラの主たるアレンジャーとして活躍した。
27年にはJean Goldketteのオファーを受けデトロイトのMcKinney's Cotton Pickersのバンドリーダーを務めるようになる。
31年には自身のバンドを結成し、マンハッタンのConnie's Inn.を中心に演奏するようになる。Brunswick Records 及びラジオ放送での録音の契約を結び、フライシャースタジオ制作のI Heard,に音楽提供をした。
31年から34年にかけ彼がBrunswickに残した録音はスイング期以前の最も洗練されたアレンジメントとして評価されている。

2012年6月8日金曜日

Fisk Jubilee Singers

1871年にテネシー州フィスク大学の生徒たちによって結成されたボーカルグループ。
結成当時財政難に陥っていたフィスク大学は運営資金を集める為に同グループを編成し、グループは資金調達のツアーに出た。
最終的に彼らの最初のアメリカ巡業は4万ドルの寄付金を集め、またその巡業によって北部や白人たちに黒人霊歌が知れ渡る事となった。
72年にはホワイトハウスでの演奏、73年にはビクトリア女王のために演奏した。
同大学では現在でもジュビリー・シンガーズとしての活動を継続している。


2012年6月7日木曜日

Mat Matthews

1924年生。2009年没。オランダ、デンハーグ出身。
第二次世界大戦中ナチス統治下 のデンハーグにてアコーディオンの演奏を学ぶ。
戦後Joe Mooneyの演奏をラジオで聴きジャズを志す。
51年にはニューヨークへと移り、軍の為に演奏した。
その後Herbie Mannとのカルテット結成、Percy Heath, Kenny Clarkeとの共演などをこなす。54年から55年にはCarmen McRaeと共演する。
57年録音で訪れたカナダ、トロントで出会ったモデルのBillie Baileyは彼の2人目の妻になり、その間に四子を設ける。北アメリカでジャズ・アコーディオン奏者を続ける難しさから64年には生地であるオランダへと戻り、60年代には商業的成功を収めた。



Joe Mooney

1911年生。1975年没。ニュージャージー州パターソン出身。
10歳の頃視力を失う。20年代後半には兄のDanとラジオ放送にて演奏するようになる。29年から31年に掛けてはSunshine Boys, Melotone Boysとして録音を残す。
36年までオハイオ州シンシナチのラジオ局WLWで演奏するがこの後兄のDanは音楽業界をさ去ってしまう。
37年よりアレンジメントの仕事を手掛けるようになり、40年代にはPaul Whiteman, Vincent Lopez, Larry Clingtonらのアレンジを手掛けた。
43年からは自身のカルテットを率い、40年代後半に成功を収めた。
50年代にはSauter-Finegan OrchestraのボーカルやJonny Smithとの共演をする。
フロリダに移って以降はオルガンの演奏に専念した。




2012年6月6日水曜日

Walter Gross

1909年生。1967年没。ニューヨークシティ出身。
30年代初頭にはプロのピアニストとして活動を始める。Paul Whiteman, Andre Kostelanetz, Tommy Dorsey, Raymond Scottらのバンドで演奏する。
また、30年代にはCBSラジオ所属のピアニストとしても活動した。
第二次世界大戦に従事した後は、Musicraft Records,にてアレンジャーやコンポーザーを務めた。
46年には作詞家Jack Lawrenceの申し出を受け彼の書いた最も有名な曲である"Tenderly"が生まれた。同曲はRosemary Clooneyの歌唱によって特に良く知られている。その後数多くのミュージシャンによって演奏・録音される。
その後もAlec Wilder楽団のピアニストやMel Torme楽団の指揮者として活躍した。




2012年6月5日火曜日

Mildred Bailey

1907年生。1951年没。ワシントン州テコア出身。
30年代を中心に活躍し"The Queen of Swing", "The Rockin' Chair Lady"として知られる。
音楽一家に生まれピアノの演奏、歌を母親から教わる。
17歳の時シアトルに引っ越し、ウールワースのシートミュージック(楽譜)のデモンストレーターとして働くようになる。
2人目の亭主であったBenny Stafford(Baileyは一人目の旦那のファミリーネーム)のサポートを得て西海岸でも名の知れたブルース、ジャズシンガーとなる。
Bing Crosbyの紹介によってPaul Whitemanの楽団で29年より33年までボーカルを務める。
初期の2枚のレコード(Eddie Lang楽団の"What Kind O' Man Is You?"、Frankie Trumbauer楽団の"I Like To Do Things For You")には彼女の名前はクレジットされていないが歌唱を務めた。Whiteman楽団を去った後はDorsey Brothers、Benny Goodmanらのもとで録音を残した。

30年には三人目の亭主となるRed Norvoと録音を残し、"Mr. and Mrs. Swing"と呼ばれるようになる。婚姻関係が解消した後も2人の音楽上のパートナー関係は45年まで続いた。