2012年9月28日金曜日

Memphis Minnie

1897年生。1973年没。ルイジアナ州アルジャース出身。生名Lizzie Douglas。

40年に渡り活動し、大恐慌の頃から第二次世界大戦期まで人気を博した。銀貨のブレスレットを身に付け、華美な性格だった。ブルースアーティストとしては早い時期にエレクトリックギターを使用し、Big Bill BroonzyTampa Redらと共に都会的なブルース演奏に先鞭をつけた。

いくつかの調査によると彼女は3度結婚し、その相手はいずれも才能あるブルース・ギタリストだった。3人の結婚相手はKansas Joe McCoyCasey Bill WeldonErnest "Little Son Joe" Lawlers.である。

幼い頃にバンジョーとギターの演奏を学んだ彼女は13歳の頃に家を出た。その年彼女はメンフィスやテネシーのナイトクラブや路上でLizzie "Kid" Douglasを名乗り演奏して暮らした。
翌年、彼女はRingling Brothersのサーカス団に加わる。1929年にはKansas Joe McCoyと結婚し、彼と共にファースト・レコーディングを行う。コロンビアのスカウトがメンフィスのビール通りのバーバーショップで彼女らの演奏を聴いたことがきっかけだった。レコーディングされた"Bumble Bee"はヒット曲となる。1930年代にはシカゴに移り演奏を続け、1940年代には自身のボードビル・カンパニーを立ち上げ活動を行った。"Nothing in Rambling," "In My Girlish Days," "Looking The World Over," "Me and My Chauffeur Blues"などよく知られている彼女の曲が制作され、最も精力的に活動が行われたのは1940年代初頭だった。40年代末からインディアナポリス、デトロイトと居を移し、50年代には再びシカゴへと戻ったが再び注目を集めることはなかった。

1929年に録音された彼女の"When the Levee Breaks"は1971年、Led Zeppelinによってカバーされている。また同曲は2001年にTerry Zwigoffによって制作された漫画原作の映画、Ghost Worldでも使用され、彼女自身についても映画中度々言及されている。 

 

2012年9月27日木曜日

Geeshie Wiley

アメリカの女性ブルースシンガー、ギタリスト。1930年代にわずか3枚のレコードを残した。写真など彼女の姿を知る資料は現存していない。

Ishman Braceyの証言によれば彼女はミシシッピ州ナチェスの出身であるという。また、1920年代、彼女がミシシッピ州ジャクソンのメディシン・ショウ(日本での蝦蟇の油売りのようなもの)に出演していた際にはPapa Charlie McCoyとの交際関係が語られている。いくつかの資料からMemphis Minnieと離婚した後のCasey Bill Weldonは彼女と婚姻関係にあったと考えられている。

1930年の3月、彼女は"Last Kind Word Blues"と"Skinny Leg Blues"パラマウントに吹き込んだ。Elvie Thomasが伴奏を務めている。Thomasもこの時"Motherless Child Blues"、"Over to My House"の録音を行った。Thomasの吹き込みでWylieはギターの伴奏、コーラスを務めている。1931年3月、二人は再び共に"Pick Poor Robin Clean" and "Eagles on a Half."を録音しこれが記録された最後のレコードとなった。

経歴や活動の詳細については知られていないが、ニックネームの"Geechie"及び"Geechee"はサウスキャロライナ、ジョージア沿岸部で一般的なあだ名だったことが知られている。

彼女の"Last Kind Word Blues" Terry Zwigoffによって1994年に撮影されたカートゥーン作家でSPレコードの蒐集家としても知られるロバート・クラムのドキュメンタリー映画、Crumbの中で使用されている。


2012年9月26日水曜日

Tiny Bradshaw

1907年生。1958年没。生名Cicero P. Bradshaw。

ウィルバーフォース大学で心理学の学位を取得し卒業、音楽で生計を立てるようになる。オハイオではHorace Hendersonの学内バンドでボーカルを執り、1932年には活動の場をニューヨークへ移す。同地ではMarion Hardy、後にSavoy Bearcatsとして知られるCharleston BearcatsMills Blue Rhythm Bandなどでドラムを演奏した他、Luis Russell のバンドでボーカルを務めた。

1934年、自身のバンドを結成。デッカに録音を残す。その後はレコーディングから遠ざかり、次の録音は10年後の1944年、Manor Recordsに残された。1944年の時点で彼らの演奏はリズム&ブルースにかなり接近したものとなっていた。1949年から1955年にかけてはKing Records の録音で当時拡大していたリズム&ブルースの市場で活躍した。

最も良く知られた彼の作品に1951年の"Train Kept A-Rollin"が挙げられる。リズム&ブルースとロックンロールの過度期に発表されたこの楽曲はその後1956年にJohnny Burnette、1965年にThe Yardbirds 、1974年にはAerosmithによってカバーされた。病状の悪化によって1958年King Recordsに残した"Bushes"、"Short Shorts"が彼の最後の録音となった。



2012年9月25日火曜日

Ink Spots

1930年代初頭インディアナポリスで結成。結成時のメンバーは以下の通り。
Orville "Hoppy" Jones(バス):チェロ担当
Ivory "Deek" Watson(テナー):テナーギター担当
Jerry Daniels(テナー):ギター/ウクレレ担当
Charlie Fuqua (バリトン):ギター担当
1931年頃、DanielsとFuquaはインディアナポリスで"Kyle and Charlie"というボーカルデュオを結成していた。同時期、オハイオ州シンシナティのラジオ局WLWに定期的に出演していたボーカルカルテット"The Four Riff Brothers"にJonesとWatsonは加入していた。1933年、同グループの解散に伴いWatson、Daniels、Fuquaはグループを結成。翌年Jonesも加わり4人編成となる。

1934年、Tiny Bradshawのサポートとしてアポロシアターに出演。バンドリーダーPaul Whiteman
の要請を受けグループ名を"The 4 Ink Spots"とする。同年Jack Hylton のオーケストラと英国ツアーを行い成功を収める。
初のレコーディングを1935年ビクターに残す。グループは急速に知名度を獲得していたもののレコーディングセールスは不調だった。1936年Danielsが脱退、同年Bill Kennyが加入しNBCのテレビ放送デモンストレーションに出演した。

1939年、デッカから発売されたJack Lawrence作曲の"If I Didn't Care"で初めてヒットを記録する。数ヶ月後発売された"Address Unknown"ではチャート一位を獲得した。
グループは1940年から1949年にかけて35の楽曲をチャートに記録し、46年に発売された"The Gypsy"では13週にわたりチャート首位を保持した。
40年代には"The Great American Broadcast"、"Pardon My Sarong"の二作品において映画出演を果たしている。


Marion Harris

1896年生。1944年没。インディアナ州出身。生名Mary Ellen Harrison。

1914年頃、シカゴのヴォードビル劇場、映画館で活動を始める。ダンサーのVernon Castleの紹介を受けニューヨークでの活動を始め、1915年、Irving BerlinのレビューStop! Look! Listen!に出演する。

1916年よりビクターでレコーディングを始める。"Everybody's Crazy 'bout the Doggone Blues, But I'm Happy", "After You've Gone", "A Good Man Is Hard to Find", "When I Hear that Jazz Band Play"などを録音した。"I Ain't Got Nobody"のヒットが有名。

1920年からはコロンビアに録音を残すようになる。ブルースやジャズ調の曲を多く録音した彼女は"The Queen of the Blues"と呼ばれることもあった。W.C.Handyは彼女について「彼女がブルースを上手に歌うものだからレコードを聴いている人たちは彼女のことを黒人だと思い込むこともあるんだ。」とコメントしている。

22年にブランズウィックに移った彼女はその後20年代を通じてブロードウェイに出演し続けた。31年から33年にかけてはThe Ipana TroubadorsRudy Vallee's The Fleischmann's Yeast HourなどNBCのラジオプログラムに出演した。

2012年9月4日火曜日

Gene Austin

1900年生。1972年没。テキサス州ゲインズビル出身。

彼の書いたスタンダード曲に"When My Sugar Walks Down the Street"、"The Lonesome Road"など。
生名はLemeul Eugene Lucasであるが義父の名を取りGene Austinを名乗るようになった。ルイジアナ州北東部のウェブスター郡で育った彼はピアノとギターの演奏を学ぶ。15歳の頃家を出、テキサス州、ヒューストンのボードビルに参加するようになる。同地でのボードビルは観客がステージに上がり歌を歌うことが許されていたが、客として舞台に上がった彼の歌唱は観客に絶賛され、すぐに雇用されるものとなった。

17歳の頃第一次世界大戦に従軍し、最初の駐屯地としてニューオーリンズに滞在するが、彼はその中でも特に治安の悪い地域で夜にピアノを演奏していた。
馬の扱いに長けていた彼は騎兵としてメキシコに配属され大いに戦績を残しその後フランスに配属される。

1919年アメリカに戻った彼はメリーランド州ボルティモアで生活するようになる。歯学を学ぶつもりであったがすぐに酒場でピアニスト及び歌手として活動するようになる。Roy Bergereとボードビルを結成し、"How Come You Do Me Like You Do."を作曲する。その後は後にClayton, Jackson and Durante というボードビルチームで知られることになる Lou Claytonの経営するクラブで演奏を続けた。

RCAVictorにより彼の人気曲であった"When My Sugar Walks Down the Street"が買い上げられ、その後10年間に、RCAの元で800万枚を超えるセールスを残す。とりわけよく知られた曲に"The Lonesome Road,"、"Riding Around in the Rain,"、"Ramona."などがある。

磁気録音の出現に際し、Rudy Vallee, Art Gillham, Nick Lucasらとともにクルーナー唱法の先駆けとなる。クルーナー歌手として多大な功績を残した彼は30年代以降にはハリウッドにてBelle of the Nineties (1934), Klondike Annie (1936) and My Little Chickadee (1940)に出演した。