代表作に"The More We Are Together"、"Show Me The Way To Go Home"(1925)、"If I Had You"(1928、Ted Shapiroとの共作)、"Goodnight Sweetheart"(1931年、Ray Nobleとの共作)、"Try a Little Tenderness"(1933年、Harry M. Woodsとの共作)などがある。
作曲家。最も良く知られている作品群は30年代に作詞家のJohnny Burke、Joe Youngらと制作したもの。
"Annie Doesn't Live Here Anymore"
"You're Not the Only Oyster in the Stew"
"My Very Good Friend the Milkman"
"Shadows on the Swanee"
"The Beat of My Heart"
"Now You've Got Me Doing It"
"I've Got a Warm Spot in My Heart for You"など。
"It's So Nice To Have A Man Around The House"
などJohn Elliotとも数曲共作している。
異動によりニューヨーク市へ転勤となり、作曲家Harold Spinaの曲に歌詞を提供するようになる。1932年、二人は"Shadows on the Swanee"を発表、翌33年にはGuy Lombardo Orchestraによって"Annie Doesn't Live Here Anymore"が彼らの初のヒット曲となる。34年にはFats Wallerの演奏で"You're Not the Only Oyster in the Stew"がヒットした。このコンビは他にも多くの曲を書き、それらはBen Pollack、Paul Whiteman、Ozzie Nelsonら当時のトップバンドに演奏されヒットを残した。
クラリネット奏者として17歳の頃にプロとしての活動を始め、23年にはBenny Moten楽団に参加する。 リードセクションのリーダーを31年まで務める。
1931年、Thamon HayesとKansas City Skyrocketsを結成する。メンバーはトランペットにEd Lewis、トロンボーンにVic Dickenson、ピアニストにJesse Stoneなど。シカゴでアメリカ音楽家組合と揉め後に解散した。
その後まだ若かったMyra TaylorをフィーチャーしHarlan Leonard and his Rocketsを結成する。Charlie Parkerもこのバンドで5週間の間演奏したが、バンドのルールに従わないことからLeonardによって解雇された。同バンドの演奏はスウィングとバップを橋渡すものとして考えられている。バンドは二次世界大戦中に解散した。
裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。彼の両親はAdelaide "Addie" (Wolff)とOtto Hermann KahnでOttoは芸術家のパトロンとしても有名だった。OttoとRogerは始めて父子で米TIME紙の表紙を飾ったことで知られている。Ottoは1925年の11月、Rogerは27年の9月当時19歳の頃、それぞれ表紙に写真が掲載された。
彼の曲でよく知られたものに"Hot Hot Hottentot"、"One Night In The Jungle"、"Anything You Say"、"Crazy Rhythm" (1964年、ウディ・アレンの映画Bullets Over Broadwayに使用されている。)、"Imagination"、"She's a Great Great Girl"などがある。
1934年、自身のバンドを結成。デッカに録音を残す。その後はレコーディングから遠ざかり、次の録音は10年後の1944年、Manor Recordsに残された。1944年の時点で彼らの演奏はリズム&ブルースにかなり接近したものとなっていた。1949年から1955年にかけてはKing Records の録音で当時拡大していたリズム&ブルースの市場で活躍した。
彼の書いたスタンダード曲に"When My Sugar Walks Down the Street"、"The Lonesome Road"など。
生名はLemeul Eugene Lucasであるが義父の名を取りGene Austinを名乗るようになった。ルイジアナ州北東部のウェブスター郡で育った彼はピアノとギターの演奏を学ぶ。15歳の頃家を出、テキサス州、ヒューストンのボードビルに参加するようになる。同地でのボードビルは観客がステージに上がり歌を歌うことが許されていたが、客として舞台に上がった彼の歌唱は観客に絶賛され、すぐに雇用されるものとなった。
RCAVictorにより彼の人気曲であった"When My Sugar Walks Down the Street"が買い上げられ、その後10年間に、RCAの元で800万枚を超えるセールスを残す。とりわけよく知られた曲に"The Lonesome Road,"、"Riding Around in the Rain,"、"Ramona."などがある。
1921年、父の死後彼は騎手としての活動を辞め父の遺した舞台道具を使いショーのステージに立つようになる。24年にはダンサーだったBeryl Ingham と結婚しまたこの頃ウクレレを演奏するようになる。
舞台でバンジョーレレを演奏し洒落に満ちたコミックソングを歌った彼は注目を集めるようになる。Noel Gayの作曲した"Leaning on a Lamp Post"がとりわけ良く知られている。
彼の演奏した楽曲の多くは録音が残されているが、過激な詩の内容などから放送禁止処分を受けることもあった。(1937年発表"With my little stick of BlackpoolRock")
26年に録音を始めた彼は30年代に入ると商業的成功を収めるようになり、多数の映画に出演、1934年から1945年にかけてトップ・コメディアンとして大衆の人気を博した。全盛期の1939年にはあらゆるジャンルを通じて最も人気のあるフィルム・スターだった。
Guildhall School of Musicの奨学金を獲得した彼は在学中レストランのオーケストラなどで演奏する。 Grand Hotelの音楽指揮者を担当するようになった彼は3年間同職を務め、ラジオ黎明期にはBBCでその演奏が中継されるようになる。20年代以降は知名度を上げレコードなどでも広く知られるようになる。