2013年8月23日金曜日

Ted Shapiro

1899年生。1980年没。ニューヨークシティ出身。

現リトアニア、カウナスからのユダヤ移民の家庭に生まれ、ティン・パン・アレーの作曲家となった彼はNora BayesEva Tanguayら当時の著名なヴォードヴィル・シンガーの伴奏を務めるようになる。特にSophie Tuckerとの共演は長く、その生涯において彼女の伴奏者・音楽監督を務めた。

1924年ASCAPに加入。代表作に"Winter Weather"、"If I Had You"、"To You"(Tommy Dorsey、Benny Davisと共作)、"Sitting in the Sand A-Sunnin'"、"You'll Be Reminded of Me"など。

いくつかの楽曲は妻であり、ジュエリーデザイナーのSusan Shapiroと共作された。








2013年8月21日水曜日

Mort Dixon

1892年生。1956年没。ニューヨーク市出身。作詞家。

20年代初頭に活動を始め、23年"That Old Gang of Mine"でヒットを収める。30年代を通じて精力的に活動し、作曲家Ray HendersonHarry WarrenHarry M. WoodsAllie Wrubelらとの共作で知られる。

彼が作詞した作品の中でもとりわけ有名なものは以下の通り。
 "That Old Gang Of Mine" (1921)、"Bye Bye Blackbird" (1926)、"I'm Looking Over a Four Leaf Clover" (1927)、"Nagasaki" (1928)、"Would You Like to Take a Walk?" (1930)、"I Found a Million Dollar Baby"、"You're My Everything"、"River, Stay 'Way from My Door" (1931)、"Flirtation Walk" 、"Mr and Mrs is the Name" (1934) 、"The Lady in Red" (1935)等。




2013年8月13日火曜日

Irving King

Irving KingはJimmy Campbell(1903年、ニューキャッスル・アポン・タイン出身)とReg Connelly(1895年、バックハースト・ヒル出身)の二人による音楽出版チーム。主に作詞家として、作曲家たちと活動した。

"Show Me The Way To Go Home"などで知られるように、彼らはIrving Kingのように変名を名乗り活動することがあった。Irving Kingの他にはIvor and Irving Kingという変名を使用した。

1929年には彼らの音楽出版社であるCampbell, Connelly & Co, Ltd.を設立。

代表作に"The More We Are Together"、"Show Me The Way To Go Home"(1925)、"If I Had You"(1928、Ted Shapiroとの共作)、"Goodnight Sweetheart"(1931年、Ray Nobleとの共作)、"Try a Little Tenderness"(1933年、Harry M. Woodsとの共作)などがある。




2013年5月18日土曜日

Don Raye

1909年3月16日生。1985年1月29日没。ワシントンD.C出身。生名Donald MacRae Wilhoite, Jr.

ヴォードヴィリアン。作曲家。
ダンサーとして活動を始め、バージニア州のダンス選手権に入賞後ヴォードヴィルに出演するようになりステージでは自作の曲も披露した。1935年からは作曲家としてSammy CahnSaul ChaplinJimmie Luncefordらと共に活動する。

30年代には"Beat Me Daddy, Eight to the Bar"、"The House of Blue Lights"、"Just for a Thrill"、"Boogie Woogie Bugle Boy."などの歌曲を筆頭にAndrews Sistersとの活動で知られる。41年より第二次世界大戦に従軍、軍役を終えた後Gene de Paulの在籍したユニバーサル・ピクチャーズに務め、ディズニー制作の『イカボードとトード氏』などに楽曲を提供する。彼とGene de Paulは同じくディズニーの『ふしぎのくにのアリス』に"Beware the Jabberwock,"を提供しレコーディングも行われたが、作中に使用されることは無かった。
映画Thunder Road(1958)のテーマソングをRobert Mitchumと共作したがこちらも映画中使用されることはなく、後にCapitol Recordsよりレコードとしてのみリリースされている。

Will Bradley Orchestraのために作曲し、1940年にレコーディングされた"(That Place) Down the Road a Piece,"は後にロックンロールのスタンダードナンバーとなりThe Rolling StonesChuck Berryなど多くのミュージシャンによって演奏された。

また、ジャズ・スタンダードとして知られている"You Don't Know What Love Is,"ではGene de Paulが作曲、Rayeが作詞を担当した。



2013年5月15日水曜日

Harold Spina

1906年6月21日生。1997年7月18日没。

作曲家。最も良く知られている作品群は30年代に作詞家のJohnny BurkeJoe Youngらと制作したもの。
"Annie Doesn't Live Here Anymore"
"You're Not the Only Oyster in the Stew"
"My Very Good Friend the Milkman"
"Shadows on the Swanee"
"The Beat of My Heart"
"Now You've Got Me Doing It"
"I've Got a Warm Spot in My Heart for You"など。

"It's So Nice To Have A Man Around The House"
などJohn Elliotとも数曲共作している。


2013年5月14日火曜日

Johnny Burke

1908年10月3日生。1964年2月25日没。カリフォルニア州アンティオキア出身。

幼少期家族はシカゴに移住する。ピアノと演劇を学ぶようになる。高校卒業後ウィスコンシン大学マディソン校に進学。オーケストラでピアノを演奏した。
大学卒業後の1926年、シカゴにあったIrving Berlinの出版事務所に入社する。ピアニスト及び楽曲の営業が彼の仕事だった。

異動によりニューヨーク市へ転勤となり、作曲家Harold Spinaの曲に歌詞を提供するようになる。1932年、二人は"Shadows on the Swanee"を発表、翌33年にはGuy Lombardo Orchestraによって"Annie Doesn't Live Here Anymore"が彼らの初のヒット曲となる。34年にはFats Wallerの演奏で"You're Not the Only Oyster in the Stew"がヒットした。このコンビは他にも多くの曲を書き、それらはBen PollackPaul WhitemanOzzie Nelsonら当時のトップバンドに演奏されヒットを残した。

1936年、彼はハリウッドに活動の拠点を移しSpinaとのコンビは解消された。ハリウッドではArthur JohnstonJimmy Monacoらと活動したが、とりわけ良く知られているのはJimmy van Heusenとのコンビである。

Van Heusenと彼は30年代、40年代を通し多くの名曲を世に送り出した。Paramount PicturesではBing Crosby出演の映画に多く作詞し、彼が参加した41本の映画のうち25本はCrosbyのものだった。1944年、Crosby主演の映画、Going My Wayのために書かれた"Swinging on a Star"はアカデミー歌曲賞を受賞した。

1956年のThe Vagabond Kingをハリウッドでの仕事の最後に、8年後の1964年、55歳でこの世を去った。






Dodo Marmarosa

1925年生。2002年没。ペンシルベニア州、ピッツバーグ出身。

幼い頃からクラシックのピアニストとしての才能を現す。一方で学友であったErroll Garnerとジャズの演奏を始めるようになる。"Dodo"というあだ名は子供の頃、体格の割に頭が大きかったことから付けられた。

1941年より、プロの演奏家として活動するようになる。15歳にしてJohnny "Scat" Davis の楽団に参加し、これをきっかけとしてその後Gene Krupaのバンドに参加する。
1940年代前半に賛助として参加したCharlie BarnetのビッグバンドでDizzy GillespieCharlie Parkerらと出会う。
1944年にTommy Dorseyの楽団に参加。Buddy Richと共演する。
同44年11月、Gramercy Fiveとして知られるArtie Shawのコンボバンドに参加。同バンドにはギタリストのBarney Kessel、トランペット奏者のRoy Eldridgeも在籍した。

1940年代後半にはLester Young、Charlie Parker、Howard McGheeGene Normanらの伴奏を務める。1947年、米エスクワイア誌のピアニスト部門で新人賞を獲得する。1946年にハリウッドで録音されたCharlie Parkerとの共演は現在でも高く評価されている。

1950年7月21日、Savoy Recordsに78回転盤でのシングルを録音する。ベースにThomas Mandrus、ドラムにJoe "Jazz" Wallaceを従えたトリオ編成で4曲を吹き込んだ。この録音は1980年に同レーベルによって再発されたThe Modern Jazz Piano Albumに聴くことができる。

1950年以降にはわずかに61年のArgo Recordsでの録音及び62年のGene Ammonsらとの共演(Prestige発売のJug & Dodoで視聴可)のみが残されている。
その後もピッツバーグにてパートタイムでの演奏を続けアマチュアとしてUptown Recordsから音源も発表するが精神疾患を患い、54年電気ショックによる治療を試みるも恢復には至らなかった。

1968年、ピッツバーグの「コロニー・レストラン」での演奏を最後に観客の前で演奏することはなかった。
晩年は彼が入院していた退役軍人管理局運営の総合医療センターにて、入院患者や来客のため時折ピアノやオルガンを演奏していた。