14歳の頃にはピアノの演奏に熟達していた彼は結婚のためAtco
Quartetを脱退した姉に代わりピアノパートを担当するようになる。J. M. Hensonらの元でシェイプ・ノートについて学び、 その後アトランタ音楽院に進学する。
大恐慌の時代を経てModern Mountaineersを結成した彼はWSB radioでのパフォーマンスに加えBluebird Recordsに録音を残す。1936年に作曲した"Good Times Are Coming Soon"はフランクリン・ローズヴェルト大統領再選のキャンペーンソングとなった。
1943年には初めてゴスペルのピアノ演奏譜を出版。ピアノの通信教育サービスなどの事業も開始した。
1947年にはHomeland Harmony Quartetのピアニストを務めるようになる。翌年録音した"Everybody's Gonna Have a Wonderful Time Up There."はヒットを収めるが、教会の関係者には非難された。後に同曲は"Gospel Boogie,"とタイトルが変更され、Pat Boone, Johnny Mathis, Johnny Cashら多くのアーティストによってカバーされた。
二人の結成したバンドは22年からWDAFによって全米放送されるようになる。演奏はカンザスのミュエルバッハホテルから中継された。放送が午後11時半か午前1時という深夜時間帯のものだったため彼らはナイト・ホークス・オーケストラを名乗るようになる。1924年にはファンクラブに37000人も参加するようになる。ファンは手紙や電報などでリクエストを伝えた。当時の様子はオリジナル楽曲の"Nighthawk Blues"の歌詞にも("Tune right in on the radio/Grab a telegram and say 'Hello'.")残されている。1924年、ジュール・スタインの設置したMusic Corporation of America と契約しシカゴへ活動の拠点を映す。 また、ウィリアム・ペイリーの企画によってニューヨークでの放送向け演奏も行った。
7歳の頃バイオリンの演奏を始め12歳の頃には地元のラジオ局で演奏するようになっていた。10代のころはBBCの放送ややサイレント映画の伴奏などを多く務めた。Trinity College of Musicに進学した彼はHenry Hall の率いたダンスバンドに参加するようになる。同バンドはいくつかの録音をEMIに残している。バンドを去った後彼は生地のノッティンガムに戻り自身のバンドを結成する。
優れたピアノの演奏技術に加え、高域で歌う歌唱スタイルやスキャットなどに特徴を持つ。50年代から80年代にかけては Cookery、Michael’s Pub、Upstairs At the Downstairsなどニューヨークのトップクラブで多く演奏した。伴奏者にSlam Stewart やMorris Edwardsを従えることが多かった。
1933年、Jimmie Luncefordのバンドに参加し数々のヒットのアレンジメントに携わる。39年にはTommy Dorseyのバンドに参加し、これは白人のバンドでアフロ・アメリカンが大きな役割を担う最初の一例となる(同年、Fletcher HendersonがBenny Goodman
のバンドに参加している)。彼のアレンジした"On the Sunny Side of the Street"、彼自身の作曲による"Yes Indeed"などがヒットを記録した。