ラベル 1910s の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1910s の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年5月5日月曜日

Carmen Mastren

1913年10月6日生。1981年3月31日没。ニューヨーク州コホーズ出身。生名Carmen Mastandrea。

1934年、Wingy ManoneJoe Marsalaのバンドに参加し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。キャリアを通じて、Raymond ScottRay McKinleyMel Powellら多くのミュージシャンと共演した。
40年代にはとりわけSidney BechetMuggsy SpanierのBig Fourに参加し、大戦時にはGlenn MillerのAir Force Bandにも参加した。

Morton Downeyのディレクター、コンダクターとしても活動した彼は50年代から70年代にかけてはNBC制作のThe Today ShowThe Tonight ShowSay When!!などに出演した。

今日では36年から41年の間に務めた、Tommy Dorsey楽団のギタリストとしての活動が広く知られている。


from Wikipedia

2014年4月9日水曜日

Jimmy Van Heusen

1913年生。1990年没。ニューヨーク州シラキュース出身。生名Edward Chester Babcock。

 高校在学中に作曲を始め、16歳の頃シャツメーカーのPhillips-Van Heusenをもじり、地元での芸名としてJimmy Van Heusenを名乗るようになる。友人たちには"チェット"の愛称で呼ばれた。

 シラキュース大学に入学した彼はそこで作曲家Harold Arlen(Over The Rainbow等の作曲家)の弟、Jerry Arlenと出会う。 Jerryの兄、Harold Arlenの助けもあり、"Harlem Hospitality"などコットン・クラブのレビューに楽曲を提供するようになる。 

いくつかのティン・パン・アレーの音楽出版社でピアニストとして活動するようになった彼はJimmy Dorsey作詞の"It's the Dreamer in Me"(1938)などを作曲した。

 作詞家Eddie DeLangeと共作するようになった彼は、"Heaven Can Wait"、"So Help Me"、"Darn That Dream"などを発表し知名度を得るようになる。

1940年にはJohnny Burkeとの共作も始め、同年のたった一年の間に60を超える楽曲を作曲した。
 Burkeと共にハリウッドへ移った彼は40年代から50年代にかけてミュージカルや映画に数多く楽曲を提供した。
以後アカデミー賞に14度ノミネートされ、1944年、1957年、1959年、1963年に受賞している。




2012年10月20日土曜日

Lee Roy Abernathy

1913年生。1993年没。ジョージア州バートウ出身。

音楽好きの両親はカルテットでの歌唱とゴスペルを子供達に教えた。5歳の頃には父がベースパートを務めたAtco Quartetに参加するようになる。コカ・コーラの木箱の上に乗って歌う彼の歌唱能力は当時から特に優れたものだった。
20年代を通じて家族は度々移住を繰り返したが、Cantonで紡績の仕事を得てからはそこに定住するようになった。

14歳の頃にはピアノの演奏に熟達していた彼は結婚のためAtco Quartetを脱退した姉に代わりピアノパートを担当するようになる。J. M. Hensonらの元でシェイプ・ノートについて学び、 その後アトランタ音楽院に進学する。

大恐慌の時代を経てModern Mountaineersを結成した彼はWSB radioでのパフォーマンスに加えBluebird Recordsに録音を残す。1936年に作曲した"Good Times Are Coming Soon"はフランクリン・ローズヴェルト大統領再選のキャンペーンソングとなった。

1943年には初めてゴスペルのピアノ演奏譜を出版。ピアノの通信教育サービスなどの事業も開始した。
1947年にはHomeland Harmony Quartetのピアニストを務めるようになる。翌年録音した"Everybody's Gonna Have a Wonderful Time Up There."はヒットを収めるが、教会の関係者には非難された。後に同曲は"Gospel Boogie,"とタイトルが変更され、Pat Boone, Johnny Mathis, Johnny Cashら多くのアーティストによってカバーされた。

1949年、Shorty Bradfordとthe Happy Twoを結成し全国をツアーした。同グループは大変な人気を博し、アトランタのWAGA-TVなどを含めテレビへの出演、コマーシャル制作など様々な活動を行った。

1958年にはジョージア州知事選に出馬、当選は果たせなかったが多くの衆目を集めた。
1973年、the Gospel Music Hall of Fameに選出される。


2012年10月16日火曜日

Ray Perry

1915年生。1950年没。

音楽一家に生まれた彼は間もなくバイオリンを演奏するようになる。兄弟のJoeとBayはそれぞれバリトン歌手、ドラマーになった。彼がバイオリンを弾きながら歌うのを見たSlam Stewartはウッドベースで同様の奏法を行うようになる。Perry自身はバイオリンよりアルト・サックスを演奏することが多かった。

Dean Earl (1935), Clarence Carter (1937–39), Blanche Calloway (1940), Lionel Hampton (1940–43)ら著名な演奏家らとセッションし日銭を稼いでいた彼の音楽キャリアは決して長くなかったがその間に多くのジャズミュージシャンと共演した。(括弧内は共演した時期)
共演したアーティストにShadow WilsonIllinois Jacquet (1946–47, 1950)、 Vernon AlleyJ. C. Heard (1946)、 Joe NewmanFred BeckettSabby Lewis (1948)、 Sir Charles ThompsonIrving Ashbyなど。

健康を崩し演奏を退くまで彼のキャリアは大変順調なものでJumpin' Jacquet50 Sublimes Chanteurs de Jazzの二枚のアルバムは今でも人気がある。



2012年10月14日日曜日

Fred Beckett

1917年生。1946年没。ミシシッピ州ネラートン出身。

高校生の時、ホルンの演奏を始める。プロとして30年代にカンザスで活動を始め、その後セントルイスにてEddie Johnson's Crackerjacksに参加するようになる。続く数年にDuke Wright, Tommy Douglas, Buster Smith, Andy Kirkらと共演した。Prince Stewart
のテリトリーバンド、Nat Towlesらとも共演し、30年代末にはHarlan Leonardと演奏した。

40年代にはDinah Washingtonの伴奏など含めLionel Hamptonと多く共演した。第二次大戦中に患った結核によって1946年死去。

2012年10月12日金曜日

Slam Stewart

1914年生。1987年没。ニュージャージー州エングルウッド出身。

ボストン音楽院に学ぶ。この頃サクソフォン奏者として知られるRay Perryがバイオリンの演奏に合わせ歌うのを目にしウッドベースに合わせオクターブ上の音で歌うスタイルが出来上がった。彼自身20歳の頃ウッドベースに転向する以前はバイオリン奏者として活動していた。ジャズ演奏の際のウッドベースのアルコ(弓弾き)がトレードマーク。

1937年、Slim GaillardSlim and Slamを結成する。 Floy Floyと共演した"Flat Foot Floogie"がヒットする。
1940年代を通じてLester Young, Fats Waller, Coleman Hawkins, Erroll Garner, Art Tatum, Johnny Guarnieri, Red Norvo, Don Byas, the Benny Goodman Sextet, Beryl Bookerとのセッションで活躍した。
中でもCharlie Parkerも参加した45年のDizzy Gillespieとのセッションがとりわけ良く知られており、"Groovin' High"や"Dizzy Atmosphere."などは現在でもビバップのクラシック曲として扱われる。

その後はベース演奏の傍らニューヨーク州立大学などで教鞭を執った。


2012年8月22日水曜日

Coon-Sanders Original Nighthawk Orchestra

1919年結成。
 クーンは1893年、ミネソタ州ロチェスター出身。サンダースは1896年カンザスに生まれた。サンダースは地元で野球の名手として知られていたが音楽に専念するため20年代初頭にスポーツを退く。

二人の結成したバンドは22年からWDAFによって全米放送されるようになる。演奏はカンザスのミュエルバッハホテルから中継された。放送が午後11時半か午前1時という深夜時間帯のものだったため彼らはナイト・ホークス・オーケストラを名乗るようになる。1924年にはファンクラブに37000人も参加するようになる。ファンは手紙や電報などでリクエストを伝えた。当時の様子はオリジナル楽曲の"Nighthawk Blues"の歌詞にも("Tune right in on the radio/Grab a telegram and say 'Hello'.")残されている。1924年、ジュール・スタインの設置したMusic Corporation of America と契約しシカゴへ活動の拠点を映す。 また、ウィリアム・ペイリーの企画によってニューヨークでの放送向け演奏も行った。

その後も順調に活動を行ったが1932年クーンの病死によって失速、サンダースは自身のバンドを組むなど活動を続けたが1965年にこの世を去った。

現在でも年に一度、彼らのファンによって会合/フェスティバルがウェストバージニア州で開催されている。



2012年7月23日月曜日

Orrin Tucker

1911年生。2011年没。ミズーリ州セントルイス出身。

若い頃からサックスの演奏を学んでいた彼は大学在学中に自身のバンドを結成する。シカゴから訪れていたスカウトに誘われニュー・オーリンズへ演奏旅行へ出向いた。彼はまた同地にてカンザス・シティでの演奏に招かれ、現地に留まり演奏するようになる。地元の劇場では手の込んだ舞台装置で名を知られるようになる。

バンドではボーカルも務めたがLouis Armstrongの薦めでBonnie Bakerを起用する。39年Columbia Recordsと契約したバンドは第一次世界大戦最時にAbe Olmanによって書かれた''Oh Johnny, Oh Johnny, Oh!''のカバーでヒットを掴み同曲はチャート最高位2位を記録した。後に彼のバンドに参加したボーカリストにHelen Lee、Scottee Marshがいる。

2012年7月22日日曜日

Nellie Lutcher

1912年生。2007年没。ルイジアナ州レイク・チャールズ出身。

15人兄弟の長女として生まれる。父はベース奏者、母は教会のオルガン奏者だった。ピアノレッスンを受けた彼女は父の組んだ家族楽団で演奏するようになる。ブルース・シンガーのMa Raineyが地元を訪れた際、当時12歳だった彼女は病欠したピアニストの代理を務め演奏した。

1933年にはSouthern Rhythm Boysに加入し全国をツアーしていた彼女だが、1935年にロサンゼルスを活動の拠点とする。この頃Earl HinesDuke EllingtonNat "King" Coleらの影響を受けスウィング・ピアノを演奏するようになる。Coleは彼女の友人でもあった。

1947年、まだ全米的な知名度は小さかった彼女はタレント・ショーに出演し、ラジオ放送でそれを聴いていたCapitol RecordsのスカウトだったDave Dexterの耳にとまる。Capitolと契約した彼女はヒット曲を次々に発表するようになる。

50年にはNat "King" Coleとのデュエットや英ラジオパーソナリティJack Jacksonのプロモーションによるイギリスツアーなどを行った。
 51年にCapitolとの契約が解消された彼女はその後もOkehDeccaLibertyなどのレコード・レーベルに録音を残した。

彼女の特徴な発音や歌唱法はNina Simoneなど後のシンガーに影響を与えた。


Cyril Stapleton

1914年生。1974年没。イギリス出身。

7歳の頃バイオリンの演奏を始め12歳の頃には地元のラジオ局で演奏するようになっていた。10代のころはBBCの放送ややサイレント映画の伴奏などを多く務めた。Trinity College of Musicに進学した彼はHenry Hall の率いたダンスバンドに参加するようになる。同バンドはいくつかの録音をEMIに残している。バンドを去った後彼は生地のノッティンガムに戻り自身のバンドを結成する。

30年代にはJack Payne Orchestraと南アフリカをツアーする。第二次世界大戦に従軍後、London Symphony Orchestra、the National Symphony Orchestra、the Philharmonia Orchestraなどに参加する。1947年には再びバンドを結成し、BBCで演奏するようになった。共演した歌手にDick JamesFrank Sinatraなど。
彼のバンド出身のミュージシャンにBert WeedonBill McGuffieTommy WhittleMatt Monroなどがいる。



2012年7月16日月曜日

Rose Murphy

 1913年生。1989年没。オハイオ州ジーニア出身。
多くの曲中で「チー・チー」と口ずさむことから“the chee chee girl”と渾名される。別称に'The Girl with the Pale Pink Voice'。

30年代カウント・ベイシー楽団のミュージカル演奏の幕間ピアニストとしてキャリアをスタートする。40年代にはアメリカ、イギリスの両国で人気を博すようになる。

優れたピアノの演奏技術に加え、高域で歌う歌唱スタイルやスキャットなどに特徴を持つ。50年代から80年代にかけては Cookery、Michael’s Pub、Upstairs At the Downstairsなどニューヨークのトップクラブで多く演奏した。伴奏者にSlam Stewart やMorris Edwardsを従えることが多かった。

2012年7月8日日曜日

Sy Oliver

1910年生。1988年没。ミシガン州バトルクリーク出身。

母はピアノ教師、父はマルチ・インストゥルメンタリストの音楽一家に生まれる。父は当時マーチングバンド以外では使用されることの少なかったサックスの演奏で名を上げた人物だった。

17歳の時実家を離れZack Whyte and his Chocolate Beau Brummelsや後にAlphonse Trent の元で演奏するようになる。

1933年、Jimmie Luncefordのバンドに参加し数々のヒットのアレンジメントに携わる。39年にはTommy Dorseyのバンドに参加し、これは白人のバンドでアフロ・アメリカンが大きな役割を担う最初の一例となる(同年、Fletcher HendersonBenny Goodman
のバンドに参加している)。彼のアレンジした"On the Sunny Side of the Street"、彼自身の作曲による"Yes Indeed"などがヒットを記録した。

Dorseyのバンドを去った彼はフリーランスのアレンジャーとしてFrank Sinatraのアルバムへの参加、Decca Records のディレクターなどを務めた。
DeccaではElla Fitzgerald のために残したアレンジメントが有名。
彼自身の代表曲としてはT'ain't What You Do (It's the Way That You Do It)が広く知られている。