2015年1月7日水曜日

Kay Starr

1922年7月21日生まれ。歌手。40年代、50年代に活躍した。
特に50年代にチャート1位を記録した"Wheel of Fortune"、"The Rock And Roll Waltz"で広く知られている。

生名Katherine Laverne Starks。オクラホマ州ドハーティ出身。父Harryはインディアン、母はアイリッシュとインディアンの混血の家系だった。父がスプリンクラー設備の職に就き、一家はテキサス州ダラスに移り住んだ。彼女が鳥小屋でセレナーデを歌うのを聴いたおばのノラは感心し、ダラスのラジオ局WRRに彼女を出演させる。
初めて参加した歌唱コンテストの結果こそ3位だったが、その後15分のショーを任されることになる。彼女はポップソング、ヒルビリーを歌い一晩に3ドルを稼いだ。恐慌の時代においては大金だった。

父の転職に伴い一家はテネシー州メンフィスに移り住んだが、彼女はラジオ出演を続けていた。この頃現地のラジオ曲WMPSは彼女宛に届くファンレターに書かれた綴り間違いにヒントを得て、彼女にKay Starrと改名するように薦めた。

彼女が15歳の頃、メンフィスのピーボディ・ホテルに演奏で訪れたJoe Venutiは女性シンガーを探していた。彼女の歌をラジオで聴いたVenutiのロードマネージャーは彼にKayを推し、当時中学生だったKayはVenutiのバンドに参加することとなった。両親は門限を必ず守るよう強く言い聞かせた。

39年にはMarion Huttonの代役としてBob Crosby、Glenn Millerとも少しの間共演したが、42年にバンドが解散されるまで、多くをJoe Venutiの元で過ごした。彼女の最初の二枚のレコードこそMillerのもとでリリースされたが"Baby Me"、"Love with a Capital You"のいずれもHuttonのためにアレンジされており、ヒットとはならなかった。

高校卒業後はロサンゼルスに移り、Wingy ManoneCharlie Barnetらのバンドに参加した。

46年にはソロとなり、47年にCapitol Recordsと契約した。



from and other stories on Wikipedia 2014/01/07


2015年1月6日火曜日

Fran Warren

Frances Wolfe。1926年3月4日生。2013年3月4日没。Fran Warrenの芸名で歌手として活動。
ブロンクスのユダヤ家系に生まれる。ニューヨークにあったロキシーシアターで数度コーラスラインを務めた後、16歳でDuke Ellingtonバンドのオーディションを受ける。結果は不合格だったがその後たちまちの内Woody Herman、Randy BrooksArt MooneyBilly EckstineCharlie BarnetClaude Thornhillらのバンドで歌手を務めるようになる。彼女をFran Warrenと名付けたのはBilly Eckstineだった。Charlie BarnetのバンドではKay Starrの後任を任される。

1947年にはThornhillのバンドでコロンビアからリリースした"A Sunday Kind Of Love"がチャートインする。1948年にはRCA Recordsのもとでソロシンガーとして活動を始める。彼女の歌った楽曲の中でもTony Martinとデュエットした"I Said My Pajamas (and Put On My Pray'rs)"はチャート3位を記録するヒット曲となった。

50年代初頭にはMGMに移籍し、最後に残したヒット曲として53年の"It's Anybody's Heart"が知られている。アルバム作品としては57年にTOPSよりMarty Paich編曲によるHey There! Here's Fran Warren、60年にRalph BurnsAl Cohn編曲によるSomething's Comingがある。

コネチカットに住み、87歳の誕生日に去った。


2014年5月6日火曜日

Mel Powell

1923年2月12日生。1998年4月24日没。生名Melvin Epstein。

ロシア系ユダヤ人移民を両親にニューヨークに生まれる。本名はメルヴィン・エプステイン(Melvin Epstein)。十代でニューヨークでプロのジャズ演奏家として活動に入る。1941年から1942年にかけて、ベニー・グッドマンのために演奏や作曲編曲を手懸けた。1943年から1945年までグレン・ミラーの空軍バンドの一員となり、終戦期にはジャンゴ・ラインハルトパリで共演した。短期間グッドマン楽団に復帰するも、やがて戦後ハリウッドで活動し、女優のマーサ・スコットと結婚した。パウエル自身は1948年にジャズ映画『ヒット・パレード(原題は“A Song Is Born”)』に出演して、ピアニスト役でグッドマンやルイ・アームストロングらの有名ジャズ・ミュージシャンと共演を果たした。
1948年から1952年までイェール大学パウル・ヒンデミットに作曲法を師事してからは、完全にジャズの経歴をなげうって、クラシック現代音楽の作曲家に転身した。1958年から1969年までイェール大学作曲科の教員を務め、この間、「イェール大学電子音楽研究所(the Yale Electronic Music Studio)」を創設し、また機関誌『新音楽の展望(Perspectives of New Music)』を創刊して初代編集長となった。1969年カリフォルニア州に転居し、同州ヴァレンシアのカリフォルニア芸術大学の学部長を務めた。学長に昇進した後に“Roy O. Disney Professorship of music”を授与される。歿年まで同大学にて教鞭を取り、作曲を続けた。1990年には、2台ピアノと管弦楽のための協奏曲相似Duplicates)》に対してピュリッツァー賞音楽部門を受賞。著名な門人にジャスティン・コノリーウォルター・ヘクスターアルトゥーロ・マルケスルイス・スプラトランロイス・V・ヴィアークジョン・フェリットーらがいる。
1987年にジャズ界に復帰し、巡航船SSノーウェイ号で開かれたジャズ・フェスティバルにおいて、ベニー・カーターハワード・オールデンミルト・ヒントンルイ・ベルソンと共演した。その演奏会の模様は、アルバム『リターン・オブ・メル・パウエル』(キアロスクーロ・レコード)として発売されており、このCDではパウエルが、約20分を費やして、半生やジャズ界を去った理由を振り返っている。


from Wikipedia: 2014/5/6

2014年5月5日月曜日

Carmen Mastren

1913年10月6日生。1981年3月31日没。ニューヨーク州コホーズ出身。生名Carmen Mastandrea。

1934年、Wingy ManoneJoe Marsalaのバンドに参加し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。キャリアを通じて、Raymond ScottRay McKinleyMel Powellら多くのミュージシャンと共演した。
40年代にはとりわけSidney BechetMuggsy SpanierのBig Fourに参加し、大戦時にはGlenn MillerのAir Force Bandにも参加した。

Morton Downeyのディレクター、コンダクターとしても活動した彼は50年代から70年代にかけてはNBC制作のThe Today ShowThe Tonight ShowSay When!!などに出演した。

今日では36年から41年の間に務めた、Tommy Dorsey楽団のギタリストとしての活動が広く知られている。


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2014年5月4日日曜日

Teddy Bunn

1909年生。1978年7月20日没。ニューヨーク州フリーポート出身。生名Theodore Bunn。

1929年にDuke Ellingtonの録音に賛助として参加するようになる。29年から31年にかけてはThe Washboard Serenadersと、32年から37年、39年から41年にかけてはSpirits of Rhythmと共演する。


Sidney BechetHadda BrooksJohnny DoddsJ.C. HigginbothamLionel HamptonJimmie Nooneら著名なミュージシャンらとも多く共演したが、ブルーノートにソロの録音を残して以降、徐々に露出は少なくなっていった。



Sylvester Weaver

1897年7月25日生。1960年4月4日没。ケンタッキー州ルイズヴィル出身。

1923年10月23日に歌手のSara Martinと共に"Longing for Daddy Blues" / "I've Got to Go and Leave My Daddy Behind"をニューヨークで録音し、その二週間後にはソロで"Guitar Blues" / "Guitar Rag"を録音する。レコードはどちらもOkeh Recordsから発売された。
これらの録音は現在最初期の、またスライドスタイルのギターブルースの録音として知られている。"Guitar Rag"はブルースクラシックとして30年代にはBob Wills and the Texas Playboysにもカバーされ、カントリー音楽においてもスタンダード楽曲として広く知られるようになった。

1927年までにおよそ50曲を録音し、Sara Martin、Walter Beasley、Helen Humesらと共演した。発売されたレコードは順調な売り上げを見せたが、27年彼は音楽活動を退き、ルイズヴィルへと帰郷し、他界するまで彼はそこで過ごした。50年代に多くのブルースマンが再評価される中、大きく顧みられることもなく、60年に死去した。




2014年4月9日水曜日

Jimmy Van Heusen

1913年生。1990年没。ニューヨーク州シラキュース出身。生名Edward Chester Babcock。

 高校在学中に作曲を始め、16歳の頃シャツメーカーのPhillips-Van Heusenをもじり、地元での芸名としてJimmy Van Heusenを名乗るようになる。友人たちには"チェット"の愛称で呼ばれた。

 シラキュース大学に入学した彼はそこで作曲家Harold Arlen(Over The Rainbow等の作曲家)の弟、Jerry Arlenと出会う。 Jerryの兄、Harold Arlenの助けもあり、"Harlem Hospitality"などコットン・クラブのレビューに楽曲を提供するようになる。 

いくつかのティン・パン・アレーの音楽出版社でピアニストとして活動するようになった彼はJimmy Dorsey作詞の"It's the Dreamer in Me"(1938)などを作曲した。

 作詞家Eddie DeLangeと共作するようになった彼は、"Heaven Can Wait"、"So Help Me"、"Darn That Dream"などを発表し知名度を得るようになる。

1940年にはJohnny Burkeとの共作も始め、同年のたった一年の間に60を超える楽曲を作曲した。
 Burkeと共にハリウッドへ移った彼は40年代から50年代にかけてミュージカルや映画に数多く楽曲を提供した。
以後アカデミー賞に14度ノミネートされ、1944年、1957年、1959年、1963年に受賞している。